はかなしやわが身の果てよ‥‥

C051024-106-1

−今日の独言− 小野小町

美貌の歌人として在原業平と好一対をなす小野小町の経歴は不明なことが多く、またそれゆえにこそ多くの説話が語られ、全国各地にさまざまな伝説が生まれた。
鎌倉初期に成立した「古事談」では、東国の荒れ野を旅する業平が、風の中に歌を詠む声を聞き、その声の主を捜し歩くと、草叢に髑髏を見出すが、実は其処こそ小町の終焉の地であった、という説話がある。小町の髑髏の話はこれより早く「江家次第」という古書に見えるという。また同じ平安後期の作とされる「玉造小町壮衰書」なる漢詩では、美女の栄枯盛衰の生涯が小町に託されて歌われているとか。さらには鎌倉初期、順徳院が著したとされる歌学書「八雲御抄」では歌の神として小町が夢枕に立ち現れたという話もあり、これらより天下一の美女であり歌人の小町伝説は、さまざまな歌徳の説話や恋の説話が展開され、老後には乞食となり発狂したという落魄の物語まで生み出される。
今に伝わる小町の誕生地と終焉の地とされるところは全国各地に点在しており、かほどに小町伝説が広く流布するには、同じく生没年不詳の歌人和泉式部書写山性空上人により道心を起こし諸国を行脚したとされ、これより瘡蓋譚をはじめさまざまな説話が全国に広まるが、これら式部伝説と重なり合って流布していく一面もあったかとも考えられそうだ。
鎌倉期以降には小町伝説や式部伝説を語り歩く唱導の女たちが遊行芸能民化して全国各地を旅したであろうし、また神官小野氏の全国的なネットワークの存在も伝説流布に無視できないものだったのではないか。
そんな小町伝説をいわば集大成し、文芸的な形象を与えたのは世阿弥以降の能楽である。今日にまで残される謡曲に小町物は、「草子洗小町」、「通小町」「卒塔婆小町」「関寺小町」「鸚鵡小町」「雨乞小町」「清水小町」と七曲ある。なかでもよく知られたものは、小町に恋した深草少将が、百夜通えば望みを叶えようと約した小町の言葉を信じて通いつめたものの、あと一夜という九十九夜目にして儚くも死んでしまったという「通小町」と、朽ちた卒塔婆に腰かけた老女が仏道に帰依するという話で、その老女こそ深草少将の霊に憑かれた小町のなれの果てであったという「卒塔婆小町」だろう。
江戸化政文化の浮世絵全盛期、北斎はこれら七様の小町像を「七小町枕屏風」として描いている。
また元禄期の俳諧芭蕉らの巻いた歌仙「猿蓑」ではその巻中に、
  さまざまに品かはりたる恋をして  凡兆
   浮世の果てはみな小町なり    芭蕉
と詠まれているのが見える。

――――――――――――――― 参照「日本<架空・伝承>人名事典」平凡社 


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春−31>
 春霞たなびく空は人知れずわが身より立つ煙なりけり   平兼盛

兼盛集、春頃。
生年不詳−正暦元年(990)。光孝天皇の皇子是貞親王の曾孫。三十六歌仙後撰集以下に87首。
邦雄曰く、小倉百人一首に採られた「しのぶれど色に出でにけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで」の作者兼盛は、逸話多く、家集も数多の恋の贈答を含む。この「春霞」も誰かに贈った歌であろう。「煙」は忍ぶる恋に胸を焦がす苦しい恋の象徴、と。


 はかなしやわが身の果てよあさみどり野べにたなびく霞と思へば   小野小町

小町集。
生没年不詳。文徳・清和朝頃の歌人小野篁の孫とも出羽郡司小野良実の女とも、また小野氏出自の釆女とも。古今集後撰集に採られた約20首が確実とされる作。六歌仙三十六歌仙の一人。
邦雄曰く、哀傷の部に「あはれなりわが身の果てや浅緑つひには野べの霞と思へば」として入集。小町集のほうが窈窕としてもの悲しく、遥かに見映えがする。伝説中の佳人たるのみならず、残された作品も六歌仙中、業平と双璧をなす。古今集には百人一首歌「花の色は移りにけりな‥‥」が入集。貫之が評の如く「あはれなるやうにて、強からず」か、と。


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