見ぬ世まで思ひ残さぬながめより‥‥

Nakahara050918-066-1

−今日の独言− ドストエフスキーの癲癇と父殺し

罪と罰」や「カラマーゾフの兄弟」の文豪ドストエフスキーが、癲癇性気質だったことはよく知られた話だろうが、亀山郁夫の「ドストエフスキー−父殺しの文学」(NHKブックス)によれば、フロイトが1928年に「ドストエフスキーと父殺し」と題する論文で、ドストエフスキーの生涯を悩ました癲癇の発作について、彼の持論である「エディプス・コンプレックス」を適用してみせている、とこれを引用しつつ論を展開しているが、なかなかに興味深く惹かれるものがあった。以下、フロイトの孫引きになるが、
「少年フョードルは、ライバルでありかつ支配者である父親を憎み、その反面、強者である父親を賛美し、模範にしたいというアンビバレントな感情に苦しめられていた。しかし、ライバルたる父親を亡き者にしたいという願いは、父親から下される罰、すなわち、去勢に対する恐怖によって抑圧されていた。そして、その父親が(彼の支配下であった)農奴によって殺されたことで、図らずもその願いが現実化したため、まるで自分が犯人であるかのような錯覚にとらわれた」というのである。
ドストエフスキーの発作は、18才のときのあの震撼的な体験、すなわち父親の殺害という事件を経てのち、はじめて癲癇という形態(痙攣をともなう大発作の型)をとるに至った」
或いはまた「この癲癇の発作においては、瞬間的に訪れるエクスタシー(アウラ)のあと、激しい痙攣をともなう意識の喪失に襲われ、その後にしばらく欝の状態が訪れる」といい、
「発作の前駆的症状においては、一瞬ではあるが、無上の法悦が体験されるのであって、それは多分、父の死の報告を受け取ったときに彼が味わった誇らかな気持ちと解放感とが固着したものと考えていいだろう。そしてこの法悦の一瞬の後には、喜びの後であるだけに、いっそう残忍と感ぜられる罰が、ただちに踵を接してやってくるのが常であった」と。
フロイトはさらに、少年フョードルの心の深く根を下ろしている罪の意識や、後年現れる浪費癖、賭博熱などいくつかの異常な行動様式にも同じ視点から光をあてている、としたあとでこの著者は、
「60年に及んだドストエフスキーの生涯が<エディプス・コンプレックス>の稀にみるモデルを呈示していることは否定できないだろう。フロイトの存在も、フロイトの理論も知らなかったドストエフスキーは、父親の殺害と癲癇の発作を結びつけている見えざる謎を、ひたすら直感にしたがって論理化し、表象化するほかに手立てはなかったのだ。」と、ドストエフスキー文学の深い森の中へと読者を誘ってゆく。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春−32>
 見ぬ世まで思ひ残さぬながめより昔にかすむ春の曙  藤原良経

風雅集、雑上、左大将に侍りける時、家に六百番歌合しけるに、春曙。
邦雄曰く、六百番歌合きっての名作と称してよかろう。右、慈円の「思ひ出は同じ眺めに帰るまで心に残れ春の曙」と番。左右の方人ことごとく感服、判者俊成「心姿共にいとをかし。良き持に侍るべし」と、滅多に用いぬ最上級の判詞を認める。過去・現在・未来を別次元から俯瞰したような、底知れぬ深み、青黛と雲母を刷いたかの眺め、賛辞に窮する、と。


 春といへばなべて霞やわたるらむ雲なき空の朧月夜は  小侍従

千五百番歌合、五十四番、春一。
生没年未詳(生年は1120年頃−没年は1202以後とみられる)。父は石清水八幡宮別当大僧都光清。「待宵のふけゆく鐘の声きけばあかぬ別れの鳥はものかは」の恋歌で知られ、「待宵の小侍従」と異名をとる。後鳥羽院歌壇で活躍、俊成・平忠盛西行らと交遊、源頼政藤原隆信らと贈答を残す。家集に「小侍従集」、千載集初出、勅撰入集55首。
邦雄曰く、空前の大歌合に列席の栄を得た小侍従は、87歳の俊成に次ぐ高齢。ゆるぎのない倒置法で風格を見せるところ、さすがに老巧、と。


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