花の色をうつしとどめよ鏡山‥‥

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−今日の独言− 言文一致

 言文一致の運動は、明治19(1886)年に国語学者物集高見がその著書「言文一致」での提唱を始まりとされる。二葉亭四迷が「浮雲」(明治20年発表)において、三遊亭円朝の落語を口演筆記したものを参考にした、というのはよく知られたエピソードだが、この言文一致への過渡期において、同じ明治20年の「花井お梅事件」の以下二つの報道記事が見せる極端なほどの対照ぶりは驚くべきものがあり、当時の時代相を如実に反映してとても面白い。

A−東京日日新聞
「白薩摩の浴衣の上に、藍微塵のお召の袷、黒襦子に八反の腹合せの帯を、しどけなく締め、白縮緬の湯具踏しだきて、降しきる雨に傘をも指さず、鮮血のしたたる出刃包丁を提げたる一人の美人が、大川端に、この頃開きし酔月の門の所をドンドン叩き、オイ爺ンや、早く明てと呼ぶ声は、常と変りし娘の声と、老人の専之助は驚きながら、掻鍵外せば、ズット入る娘のお梅、其場に右の出刃包丁を投り出して、私しゃァ今、箱屋の峯吉を突殺したよ、人をしゃ殺ァ助からねえ、これから屯署へ自首するから、跡はよい様に頼むよ、と言い棄てて飛出したるは、これなん此家の主婦、以前は柳橋で秀吉と言い、後日新橋で小秀と改め、其後今の地に引移りて待合を開業せし、本名花井お梅(24)なり。」−後略−

B−朝日新聞
「殺害、日本橋区浜町2丁目13番地、大川端の待合酔月の主婦花井むめ(24才)は一昨夜九時頃同家の門前なる土蔵の側に於いて、同人が秀吉と名乗り、新橋に勤めし頃の箱屋にて、今も同人方へ雇ひ居る八杉峯吉(34才)を出刃包丁にて殺害し、久松警察署に自首したり、しかし同人が警察署にて自白せし処に拠れば、右峯吉は予てむめに懸想し居りしが、同夜むめが外出の折を窺ひ、出刃包丁を以つて強迫に及びしにより、むめは是を奪ひ取つて峯吉を殺害したる旨申立てたと云う。峯吉の死体を検視せしに胸先より背を突き抜かれ、且つ面部手足にも数カ所の薄手を負い居れり。」

 Bは語尾こそ文語調だが、文の運びや論理構成は現在のものと格別変わりはないが、Aはそのまま江戸時代の瓦版にも似て、その虚構めいた情景描写たるやまるで芝居や浄瑠璃世界を髣髴とさせる描きようだ。同じ事件を報道してこの彼我の対照は、国家的事業たる近代化の波の激しさを物語ってあまりあるものだろう。
時に明治憲法(大日本帝国憲法)公布は翌々年の明治22(1889)年2月11日であった。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春−49>
 花の色をうつしとどめよ鏡山春より後のかげや見ゆると   坂上是則

拾遺集、春、亭子院の歌合に。
生年未詳−延長8年(930)。坂上田村麿の後裔という。蹴鞠の上手。三十六歌仙古今集以下に約40首。小倉百人一首に「朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里にふれるしら雪」
鏡山−近江国の歌枕、滋賀県竜王町野洲町の境にある雨乞岳竜王山とその南の星ヶ峯の総称とされる。
邦雄曰く、歌枕の固有名を現実の事物として活かして、桜花頌のあでやかな興趣を見せる。上・下句共に「は」で始まるのは当時歌病とされていた筈だが、その咎めをものともしない着想、と。


 ふたつなき心もてこそながめせめ花の盛りは月おぼろなれ   藤原実定

林下集、春、月前花。
保延5年(1139)-建久2年(1191)。右大臣公能の子。母は権中納言俊忠の女。俊成の甥。左大臣に至る。管弦に優れ蔵書家として知られる。千載集以下に78首。小倉百人一首に「ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞのこれる」
邦雄曰く、満開の桜を望月の光とともに見るなどと、二つ全き眺めは望むまいとする心。何の奇もないが、尋常でおおらかな歌の姿を、詩歌・管弦に長じた風流貴公子に即して、味わい愛でておくべきだろう、と。


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