吉野山こずゑの花を見し日より‥‥

C0510240171

Information<Shihohkan Dance-Café>

−今日の独言− 相承の心

  芭蕉去ってそののちいまだ年暮れず   蕪村

「名利の街にはしり貪欲の海におぼれて、かぎりある身をくるしむ。わきてくれゆく年の夜のありさまなどは、いふべくもあらずいとうたてきに、人の門たゝきありきて、ことごとしくのゝしり、あしをそらにしてのゝしりもてゆくなど、あさましきわざなれ。さとておろかなる身は、いかにして塵区をのがれん。としくれぬ笠着てわらじはきながら、片隅によりて此句を沈吟し侍れば、心もすみわたりて、かゝる身にしあらばといと尊く、我ガための摩呵止観ともいふべし。
蕉翁去って蕉翁なし。とし又去ルや、又来ルや。」

蕪村の「春風馬堤曲」は芭蕉奥の細道」への脇づとめ、と解する安東次男。
この衝迫の読みを那辺に落すべし。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春−48>
 吉野山こずゑの花を見し日より心は身にも添はずなりにき   西行

続後拾遺集、春下、花の歌の中に。
邦雄曰く、山家集春の歌の、吉野の桜を詠んだ夥しい歌群のなか、もっとも高名で、かつすべての人の心を揺する名歌。心が花にあこがれてうつし身を離れるとの誇張表現が、真に迫ってふと涙すら誘う。「あくがるる心はさても山桜散りなむ後や身にかへるべき」がこれに続く。第十六代勅撰にまで入集せず、百年以上も眠っていたのが不思議に思われる秀作、と。


 ももとせは花にやどりて過ぐしてきこの世は蝶の夢にぞありける    大江匡房

詞花集、雑下、堀河院の御時、百首の歌奉りける中に。
長久2年(1041)−天永2年(1111)。匡衡の曾孫。権中納言正二位。詩才とともに和漢の学に造詣深く、有職・兵法にも精通。後拾遺集以下に119首。
邦雄曰く、荘子出典の、荘周が夢に胡蝶となり、「自ら喩して志に適ふ」との挿話を、堀河百首の「夢」の題に即して翻案した。荘子に劣らず壮大で格調の高い調べ。11世紀末有数の秀才の薀蓄が、鬱然たる重みを感じさせる。抽象の花と変身の蝶は、漠たる四次元の春に生きる。人の一生を百年と観じたところにも、荘子譲りの気宇と志がうかがえよう、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。