匂ふより春は暮れゆく‥‥

N0408280121

−今日の独言− 吃又と浮世又兵衛

浄瑠璃狂言「吃又(どもまた)」のモデルが「浮世又兵衛」こと江戸初期の絵師岩佐又兵衛だったとは思いもよらなかった。
岩佐又兵衛については先頃読んだ辻惟雄「奇想の系譜」にも「山中常盤絵巻」などが採り上げられ、その絢爛にして野卑、異様なほどの嗜虐的な画風が詳しく紹介されていたのだが、浮世絵の開祖として浮世又兵衛の異名をとった又兵衛伝説が、近松門左衛門の創意を得て「吃りの又平」こと「吃又」へと転生を果たしていたとは意外。
実在の岩佐又兵衛自身数奇の運命に彩られている。天正6(1578)年に生まれ、父は信長家臣の伊丹城荒木村重と伝えられる。その村重が信長に反逆し、荒木一族は郎党・侍女に至るまで尼崎・六条河原で処刑虐殺されるという悲運に遭うのだが、乳母の手で危うく難を逃れたという当時2歳の又兵衛は、京都本願寺に隠れ母方の姓を名のり成長したという。京都時代は織田信雄に仕えたともいい、また二条家に出入りした形跡もあるとされる。元和元(1615)年頃、越前北ノ庄(現・福井市)へ移り、松平忠直・忠昌の恩顧を受けて、工房を主宰し本格的な絵画制作に没頭したと推測されている。忠直は家康の孫、菊池寛「忠直卿行上記」のモデルとなった人物だが、この忠直と又兵衛の結びつきも互いの運命の数奇さを思えば故あることだったのかもしれない。又兵衛はのち寛永14(1637)年には江戸へ下り、慶安3(1650)年没するまで江戸で暮らしたものと思われる。
徳川幕府の治世も安定期に入りつつあった寛永年間は、幕府権力と結びついた探幽ら狩野派の絵師たち、あるいは経済力を背景に新たな文化の担い手となっていった本阿弥光悦や角倉素庵、俵屋宗達ら京都の上層町衆らと並んで、数多くの風俗画作品を残した無名の町絵師たちの台頭もまた注目されるものだった。又兵衛はこの在野の町絵師たちの代表的な存在だったようで、彼の奇想ともいえるエキセントリックな表現の画調は、強化される幕藩体制から脱落していく没落武士階級の退廃的なエネルギーの発散を象徴しているともみえる。
「浮世又兵衛」の異名は又兵衛在世時から流布していたとみえて、又兵衛伝説もその数奇な出生や育ちも相俟って庶民のなかに喧伝されていったのだろう。近松はその伝承を踏まえて宝永5(1708)年「傾城反魂香(けいせいはんごんこう)」として脚色、竹本座で初演する。その内容は別名「吃又」と親しまれてきたように、庶民的な人物設定をなし、吃りの又平として、不自由な身の哀しみを画業でのりこえようとする生きざまで捉え直されている。


実はこの浄瑠璃「吃又」については私的な因縁噺もあって、岩佐又兵衛=吃又と知ってこの稿を書く気になったのだが、思い出したついでにその因縁について最後に記しておく。
私の前妻の祖父は、本業は医者であったが、余技には阿波浄瑠璃太夫でもあり、私が結婚した頃はすでに70歳を越えた年齢だったが、徳島県の県指定無形文化財でもあった。その昔、藩主蜂須賀候の姫君が降嫁してきたという、剣山の山麓、渓谷深い在所にある代々続いた旧家へ、何回か訪ねる機会があったが、その折に一興お得意の「吃又」のサワリを聞かせて貰ったこともあり、ご丁寧に3曲ほど録音したテープを頂戴したのである。余技の素人芸とはいえそこは県指定の無形文化財、さすがに聞かせどころのツボを心得た枯れた芸で、頂戴したテープをなんどか拝聴したものである。もうずいぶん以前、20代の頃の遠い昔話だ。
                     ―――参照「日本<架空・伝承>人名事典」平凡社


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春−59>
 匂ふより春は暮れゆく山吹の花こそ花のなかにつらけれ   藤原定家

古今集、春下、洞院摂政の家の百首の歌に。
邦雄曰く、関白左大臣家百首は貞永元(1232)年、作者70歳の4月、技法は華麗を極め、余情妖艶を盡し、老齢など毫も感じさせぬ力作がひしめく。咲いた途端に春に別れる山吹の不運、下句の秀句表現も颯爽。定家暮春の歌に今一首抜群のものあり。「春は去ぬ青葉の桜遅き日にとまるかたみの夕暮の花」、建保5(1217)年55歳の作、と。


 おもひたつ鳥は古巣もたのむらむなれぬる花のあとの夕暮   寂蓮

新古今集、春下、千五百番歌合に。
保延5年(1139)?−建仁2年(1202)。俗名藤原定長。俊成の兄弟醍醐寺阿闍梨俊海の子で、俊成の養子となる。従五位下中務小輔に至るも、後に出家。御子左一門の有力歌人。六百番歌合にて六条家の顕昭と論争。和歌所寄人。新古今集の選者となるも途中で歿。千載集以下に117首。


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