やよや待て山ほととぎすことづてむ‥‥

0510231551

−表象の森− 厄除神の将門 

昨日、東京の神田界隈は、天下祭りともいわれた神田祭で一日中賑わっていた筈だが、今日は京都の葵祭、御所から下鴨・上賀茂神社へと斎王代の巡行で王朝絵巻をくりひろげる。

葵祭りの起源には薬子の変(810年)が伏線としてある。嵯峨院と既に退位した平城院の皇位争いに薬子と藤原仲成が絡んで乱となり、嵯峨院は賀茂の神にこの乱の調伏を祈願したことに由来する。

一方、神田祭神田明神の祭神は、一に大己貴(オオナムチ)即ち大黒さん、二に少彦名(スクナヒコナ)即ちえびすさん、三に平将門の三神とされる。創建は天平2(730)年と伝えられるが、将門が祭神として祀られるのはぐんと時代も下って延慶2(1309)年である。当時の時宗真教上人が祟り神と恐れられていた将門を鎮魂慰撫のため祀ったとされる。

承平天慶の乱における関東の雄平将門は、桓武平氏上総介平高望の孫、鎮守府将軍良将の子と伝えられる。将門は侠気に富んだ人物だったとみえて、その気質が朝廷に対抗し関東一円を手中に収め新皇を名乗るまでに至らせた。新皇将門の関東支配は数ヶ月にすぎない。天慶3(940)年、藤原秀郷(俵藤太)と平貞盛らに討たれ、その首は京都へと運ばれ晒し首となったが、その三日目の夜、関東を指して飛散したといわれ、将門の首塚とされる処が数箇所ある。神田明神付近もその一つだったわけだ。

11世紀中葉に成立した「将門記」以後、将門伝説は妙見信仰(北斗七星信仰)とも結びついて潤色が重ねられ、怨霊・祟り神としてその虚構性は、ギリシャ神話のアキレウスや北欧のジークフリート神話にも似た伝承となって肥大化していく。これを利用し取り込むのが徳川幕府で、京都朝廷に対する江戸城の鬼門除けとして神田明神が尊崇されるようになる。やがて神田祭の神輿は将軍上覧のため江戸城内にも入るようになり、天下祭りと称されるところとなったのである。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏−08>
 郭公ふかき嶺より出でにけり外山のすそに声の落ちくる  西行

新古今集、夏、題知らず。
邦雄曰く、山ほととぎすが初めて里近くへ下りて来る、まだ初々しい声。颯爽たる三句切れ、それになによりも「声の落ちくる」と歌い放ったますらお振り、まことにめずらしく快く、新古今集の夏の精彩足りうる、と。


 やよや待て山ほととぎすことづてむわれ世の中に住みわびぬとよ
                                     三國町

古今集、夏、題知らず。
生没年未詳、9世紀初から中葉の人か、大納言紀名虎の女にて名は種子。仁明天皇の更衣と伝えられる。勅撰入集はこれ1首のみ。
邦雄曰く、命令形初句切れ、願望の三句切れ。時鳥はその別名を「死手の田長(たおさ)」と呼ばれ、死出の山から来て農業を勤めるとの古譚がある。季節の歌として時鳥と厭世の配合はめずらしい。死の国に我れを誘えと呼びかける暗い夏歌、と。


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