鳴きくだれ富士の高嶺のほととぎす‥‥

0511270961

−表象の森− 透谷忌

今日、5月16日は透谷忌。
「恋愛は人生の秘鑰(ヒヤク)なり」 あるいは
「人の世に生るや、一の約束を抱きて来れり。人に愛せらるゝ事と、人を愛する事之なり。」
と言った夭折の詩人北村透谷は、日清戦争(1894年)前夜、「我が事終れり」と25歳の若さで縊死した。
自由民権運動キリスト教と恋愛、そして文芸へと、あまりにも早く近代的自我に目覚めた透谷は、明治近代化の波を激しいまでに鮮烈に生き、みずから燃え尽きた。


哲学者の中村雄二郎は、西田幾多郎の「善の研究」における<真の自己>論に、透谷の「内部生命論」を惹きつけて、
「真の自己が内部生命のありかとして求められたという点で、西田との関連でとくに興味深く、西田の真の自己の孕む問題を映し出しているのは、西田より二つ歳上ながら若くしてみずから生命を絶った詩人思想家北村透谷の<内部生命論>である。死の前年に書かれた「内部生命論」は、身をもっての民権運動への参加、絶望、挫折を経たのちに内部生命の立場に立って自己の再生をはかろうとしたものである。−略− 透谷は人間的自己の自覚や内部経験を内部の生命‥‥表層の人生の背後にある深層の生命‥‥に結びつけるとともに、そのような生命を観察する詩人や哲学者はそれにふさわしい知的直感を働かさなければならないとしている。なお透谷はこの「内部生命論」のなかで、内部生命を<生命の泉源>とも<人間の秘奥の心宮>とも言いかえている。−略− たしかに西田の求めた真の自己と透谷が明らかにしようとした<内部生命>とは、いろいろな点で呼応し結びつくところが多い。」といい、
「そのことに早くから着目して山田宗睦(「日本型思想の原像」1961年)は、両者の関連を、明治の青年たちの詳細な思想史的考察をとおして明らかにし、西田幾多郎の「善の研究」は、この透谷の「内部生命論」の哲学化であった。」
と山田宗睦の言を引き、実に射程の大きい指摘であると論じている。


吉増剛造は「透谷ノート」のなかで
「これは私の独断だが、透谷には終生閉所願望のようなものがつきまとっていたのではないだろうか。そこには鏡面や壁面の魔物が出没する透谷独自の光景が出現するのではないか。うつむきがちにふくみ笑いをしていたという透谷像が伝えられている。−略− 透谷と云うと大変な行動家らしい強烈なイメージをついもってしまっている。しかしながらむしろ内省的で、じっとうつむきがちに惨野を漂白していた一人の青年の像を想い浮かべる方が正確なのであろう。志士的なあるいは自由民権家透谷の像が強すぎるのかも知れない。」
と詩人らしい眼で、固定化した透谷像をずらしてみせる。


過ぎにし遠い昔、20歳前後だったろうか、夢幻能の如き劇詩「蓬莱曲」や評論「内部生命論」を読んだ記憶が懐かしい。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏−09>
 心をぞつくしはてつるほととぎすほのめく宵のむらさめの空   藤原長方

千載集、夏、時鳥を詠める。
保延5(1139)年−建久2(1191)年、父は権中納言藤原顕長、母は藤原俊忠女、従二位権中納言藤原俊成の甥にあたり、定家とは従兄弟。千載集に初出。
邦雄曰く、今にまのあたりの空でたしかな一声を聞かせてくれるだろう、もうひととき待てばあきらかな声で鳴くに相違ないと、さまざまに心を盡して待ちわびるのだが、驟雨の去来する夕暮の空に、仄かに、鳴くともわかぬ声がするのみと、ねんごろな調べが心に残る、と。


 鳴きくだれ富士の高嶺のほととぎす裾野の道は声もおよばず   源頼政

従三位頼政卿集、夏、野径郭公、範兼卿の家の会。
邦雄曰く、武者歌人の作のめでたさは、平談俗語を試みてもさらにその調べの品下らず、むしろ朗々と誦すべき韻律を得ることであろう。この富士山の時鳥も、頼政集中に数多見る例の一つ。命令形初句切れ、駄々をこねているようで微笑ましく、まだ初音の、里馴れぬ鳥に早く降りて来いと呼びかける趣。勅撰集にはまず見られぬ独特の味である、と。


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