熟田津に船乗りせむと‥‥

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−表象の森− 栃拭漆楕円ノ器

3月12日付で触れた伝統工芸展で、村上徹君の木工作品「栃拭漆楕円ノ器(トチフキウルシダエンノウツワ)」が見事「近畿賞」の栄に輝いた。これはささやかなりとも彼を囲んで祝宴あげるべしと、昨日(5/29)が最終日の「日本伝統工芸近畿展」に京都高島屋へと出向いた。会場で落ち合ったのは、梶野哲さんと啓さん兄弟、谷田君と私の4名。展示総数は約270点、3月に心斎橋そごうで観たときの、所狭しと重なるように並べ立てられた展示に比べれば、それぞれの作品を堪能するに適した展示であり空間であった。

しばらくあって村上君登場、午後5時閉館で作品の搬出作業もあるので、彼とはあとで落ち合うことにして、我々4人はまだ明るい河原町界隈を、ほどよい居酒屋を求めて歩く。三条木屋町の角あたり、これは帰り際に知らされたのだが、近藤正臣の母者が営んでいるという旧いが少々品のよさそうな店に落ち着いた。

酉年と戌年という一歳違いの梶野さん兄弟、今どき70代をご老体と呼んではお叱りを受けようが、それにしても老いたるを知らぬ邪気たっぷりの溌剌コンビは、我が儘気儘に舌鋒冴えて飛び交う会話も変人奇人の迷走宇宙。年老いて子どもに還るというが、かたや高校美術教員として他方ドイツ文学・美学の学究の徒としてひたすらに生きてきたこの兄弟は、まだ頑是ない頃からずっと早熟な子どものまま変わらず年を経てきたような妖怪変化の類なのだ。

やっと合流した本会の主賓村上君を囲んで祝杯を挙げて、5者の放談はさらに空中戦の様相を呈す。したたかに酔いもまわって話の行方も定まらぬ。そろそろ潮時かとやっと腰を上げたときは飲み始めてから3時間半を経過していたろう。

村上君の供した話題で、先の大阪の展示会場、心斎橋そごうでは空調設備がお粗末で、なんと室内湿度が常時20〜30パーセントとか。彼の作品は一枚物の木からの刳抜(くりぬき)漆器なのだが、一週間の会期楽日にわが作品と対面して、乾燥で木肌は痩せ艶失せて見る影もないほどに哀れな姿になっていたというのには驚かされた。私などその前日に出かけて観賞したわけだが、そんな精緻なことが分るはずもない。その道のプロの眼というものに感じ入るとともに、木の作品とはまさに呼吸し生きているものなのだと痛感させられた。

私にとって初会の梶野啓さんには、彼著作の「ゲエテ−自己様式化する宇宙」を、1万円也を越す高価本のこととて、図書館にはあろうから借り出して読んでみると約したものの、今日早速調べてみるも、残念ながら蔵書目録になし。他の著作はと調べてみれば「複雑系とオートポイエシスにみる文学想像力−一般様式理論」なる長題の本が一冊、これはアマゾン古書で廉価に手に入るようだから、どうもタイトルに気圧されそうだが、近い内に挑んでみようと思う。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑−11>
 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな   額田王

万葉集、巻一、雑歌。
夙に人口に膾炙した万葉歌。斉明期661年1月6日、斉明女帝は西征の船団を率いて難波の港を発つ。14日に四国松山の近く熟田津(にきたつ)に到着、道後温泉に行宮を設けた。天智中大兄、天武大海人の二皇子以下、その姫や寵姫らも船団に在った。
邦雄曰く、「今は漕ぎ出でな」と、船団の出立を、作者自身が朗詠し、士気を鼓舞したという説もあり、三句切れ四句切れと息も吐かせず、命令形結句へ畳み込む、雄渾な趣き溢れる名歌。


 都にも久しくいきの松原のあらば逢ふ世を待ちもしてまし   周防内侍

新続古今集、離別。
生没年不詳。周防守平棟仲の女という。名は平仲子。後冷泉・後三条・白河・堀河の四代に仕えた。後出家してまもなく歿。後拾遺集以下に35首。百人一首に「春の夜のゆめばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ」。
邦雄曰く、大納言源経信が筑紫へ赴任する時、餞別に贈った歌。生(いき)の松原は福岡県早良郡壱岐村の浜。神功皇后征韓首途の際、松を逆さに地に刺して、凱旋したらこの松が「生き」ようと占われた故事あり。内侍の歌の底にも、この悲愴な趣は湛えられていよう。「あらば逢ふ世を待ちもしてまし」は、寧ろ再会を殆ど期待していない心が仄かに見える、と。


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