あづまのに紫陽花咲ける夕月夜‥‥

0412190131

−表象の森− 独歩忌

「武蔵野」や「忘れえぬ人々」の国木田独歩は、明治41年6月の今日(23日)、肺結核で死去、明治4年7月生れだから37歳に至らずの早世だった。
野口武彦によれば、独歩が「あのころ私煩悶してました」と振り返り語ったという「あのころ」は明治10年代終りから20年代にかけての頃を指しているという。それは自由民権運動が全国各地に燃えさかり、そして政府の弾圧によりやがて沈静化、消滅していく過程に符合する。透谷も独歩も岩野抱鳴も、若き政治青年として出発し、その挫折感から文学者の自意識に目覚めていくのだが、その横糸にはキリスト教の強い感化があり、信仰そしてそれからの離反があったのだろう。
「煩悶ばかりして居る訳には行かなくなり、パンを口に入れる道を急ぐ場合となれば、先づ其時分の自分の如き青年は、教師にでもなるか、宗教家を本職とする外には使ひ道がないのでありました」と独歩は「我は如何にして小説家となりしか」(明治40年)で自身の明治20年代を回想している。
明治24年にすでに洗礼を受けていた独歩は、「吾只だ活ける関係を以て此天地と此生命とに対せんことを希ふ」(「苦悶の叫」明治28年)とほとんど叫ぶようにして真の信仰を希求しているのだが、「このとき彼は<信仰>を信仰しているのだ」と野口武彦は指摘する。
独歩をキリスト教への<信仰>に結びつけまた離反させたのが、後に有島武郎の「或る女」のモデルとなった佐々城信子との恋愛だったのである。「爾の心霊は偉大なり。爾の天職は重し。−略− 天われを召す」(「欺かざるの記」)と、彼女との恋愛について綴る独歩にとって、恋愛の成就は宗教的使命にも等しかったのではないかと思われる。
恋愛と信仰の化合ゆえの燃焼といえば、透谷の場合もまた、おそらくは同様の心性ではなかったか。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏−25>
 秋ならで蓮(はちす)開くる水の上は紅ふかき色にぞありける   大江千里

大江千里集、夏、蓮開水上紅。
生没年不詳。寛平・延喜頃の漢学者。在原行平・業平の甥にあたる。寛平6年(894)、句題和歌を宇多天皇に詠進。古今集に10首、後撰集以下に約15首。小倉百人一首に「月みればちぢに物こそかなしけれわが身ひとつの秋にはあらねど」。
邦雄曰く、或る本には初句「秋近く」、結句「色ぞ見えける」と。一面に蓮が咲きそろって、水面が紅に煙るさまを五言で盡し、歌は初句と結句に作者自身の思いを託し、かつ強調した。仏教ゆかりの花だが、夏の部に、このように歌われる例は少ない、と。


 あづまのに紫陽花咲ける夕月夜露の宿りは今朝ならずとも   藤原家隆

壬二集、大僧正四季百首、花。
邦雄曰く、紫陽花は万葉集に2首のみ、古今集以後の勅撰集、私家集を通じて、殆ど見あたらない。野末の宿に一夜寝て、その露けさに歌い出でた趣。家隆の何気ない三句切れのあたりにも覗いうる。百首歌の花は4首、桜・紫陽花・萩・菊で四季を歌う。紫陽花の花、思えば、家隆にふさわしい、と。


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