忘らめや葵を草に引きむすび‥‥

Sikinoiro

−表象の森− 写真展「四季のいろ」

昨日(21日)、日本風景写真協会が主催する、「四季のいろ」と題された会員選抜展を観に出かけた。
会場は梅田のマルビル3Fの富士フォトサロンにて。観終わった後、中務さん(市岡13期)に初めての顔合わせができたのは幸いであった。
会報誌によれば全国各地に1300名ほどの会員を擁する全国組織の団体だ。この写真展は5月の東京開催を皮切りに、今月の大阪、さらには名古屋・札幌・仙台・福岡・富山・愛媛へと来年1月にかけて巡回するようである。中務さんはこの大所帯の事務局長とあるから、色々とご苦労も多いことだろうと推察される。
作品総数103点の展示、出品者各1点限定なので、103の個性が居並んでいることになるから、ひととおり鑑賞しつくすのはかなりの気力を要する。総体にいえば予想に反して、風景写真というものの芸術生に偏向した作品が多かったように受けとめられた。
こうしてみると、風景のなかのある瞬間を切り取るだけに、写真とは実を写すものというより、むしろ虚像を生み出していることに気づかされる。眼前の風景のある一瞬が残像として自身の網膜−脳裏に刻まれることと、一枚の写真として印画紙に定着されることとは、どうやら似て非なるものであるらしい。
大自然の造化の不可思議、そのある瞬間を捉え、フレームのなかに切り取られた静止画像は、それゆえにこそ、時間とのせめぎ合い、時間の凝縮あるいは引き伸ばし、悠久なる時間へとも飛翔しようとする。無限の時間と瞬間への凝縮は実際裏腹なものなのだ。なるほど、写真が無意識に表出してしまう世界とは、すぐれて時間性の芸術なのだろう。
私自身の嗜好で少なからず惹かれた作品を列挙すると、
№9「紅葉天狗岳」、№12「蒼い森」、№13「昇陽」、№15「払暁の輝き」、№24「MEMORY」、№25「春の足音」、№26「新緑の頃」、№45「瞬」、№48「陽光」、№49「夕照の出船」、№71「秋霖」、№85「雪簾」、といったところだが、これを記しているいま、記憶に残る像たちと作品名がすでに紛れてしまっていて、どれがどの作品にあたるのか分からない始末なのだから、いやはや年は取りたくないものだ。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏−24>
 忘らめや葵を草に引きむすび仮寝の野べの露のあけぼの  式子内親王

新古今集、夏、斎院に侍りける時、神館にて。
邦雄曰く、作者は平治元(1159)年から十年間、ほぼ十代を通じて賀茂の大神の斎院として仕えた。四月中の酉の祭礼に、潔斎のため一夜を過した神館の想い出。反語初句切れの愁いを帯びた響きについで、祭りにゆかりの葵を歌い、下句は「の」の珠を連ねた追憶の詞。閨秀歌人の純潔で匂やかな志と詩魂が、一首を比類ない光彩で包んだ作といえよう、と。


 咲く百合の花かあらぬか草の末にすがる螢のともし火のかげ  後土御門院

紅塵灰集、螢。
邦雄曰く、仄白く浮かぶのは百合の花だろうか。螢のともす青白い灯で、時々照らし出されるおぼろな形。螢の題ではあるが、さだかならぬ花影が、むしろ強く印象に残る。土御門院は明応9(1500)年の崩御まで、36年間在位、宮廷歌会の指導者でもあり、その御製集名にも鋭い言語感覚は明らか、と。


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