近江にか有りといふなる三稜草‥‥

Kanekomituharusizin_

−表象の森− 非協力という抵抗


「その写真は、最近まで、とこかに保存されてあった。それは、僕のむつきのころの俤だが、それをみるたびに僕は、自己嫌悪に駆られたものだった。まだ一歳か、二歳で、発育不全で、生っ白くて元気のない幼児が、からす瓜の根のように黄色くしわくれ痩せ、陰性で、無口で、冷笑的な、くぼんだ眼だけを臆病そうに光らせて、O字型に彎曲した足を琉球だたみのうえに投出して、じっと前かがみに坐っている。この世に産み落とされた不安、不案内で途方にくれ、折角じぶんのものになった人生を受取りかねて、気味わるそうにうかがっている。みていると、なにか腹が立ってきて、ぶち殺してしまいたくなるような子供である。手や、足のうらに、吸盤でもついていそうである。」


金子光晴「絶望の精神史」「詩人−金子光晴自伝」(両者とも講談社文芸文庫)と、牧羊子著作の「金子光晴と森三千代」をたてつづけに読んでみた。
いかにも刺激的な幼少期における環境の変転ぶりと、繊細で気弱な一面と頑ななまでの劇しい性格の矛盾相克が、異邦人としての破天荒なまでの放埒と放浪を生み、非協力を貫き通した抵抗詩人たる独自の詩魂にまで結実し、金子光晴的唯我独尊の、かほどの光彩を放ったかと、相応に合点もいったが、したたかにぐさりともきた。


「非協力――それが、だんだん僕の心のなかで頑固で、容赦のないものになっていった。」という彼は、ずっと慢性生気管支カタルを病んでいた病弱な息子にまで招集令状が来たとき、徹底した忌避作戦に出る。息子を部屋に閉じこめて生松葉でいぶしたり、重いリュックを背負わせ夜中にやたらと走らせる。また、ひどい雨の中を裸で長時間立たせたりと、あらゆる手を尽して、気管支喘息の発作を起こさせようとするのである。首尾よく医師の診断書を手にした彼が、軍の召集本部まで出向いて、やっとのことで応召を一年引きのばしてもらえたのが、敗戦もまじか、昭和20年3月の東京大空襲のあった日だったという。


「日本人について」という小論のなかで彼はこうも言っている。
「人間の理想ほど、無慈悲で、僭上なものはない。これほどやすやすと、犠牲をもとめるものはないし、平気で人間を見殺しにできるものもない。いかなる理想にも加担しないことで、辛うじて、人は悲惨から身をまもることができるかもしれない。理想とは夢みるもので、教育や政治に手渡された理想は、無私をおもてにかかげた人間のエコでしかない。」


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋−33>
 よしさらば涙波越せたのむともあらば逢ふ夜の末の松山    正徹

草根集、十二、康正元年十月、百首の歌を祇園の社に奉る中に、不逢恋。
邦雄曰く、海の潮ならぬ涙の波が松山を越えよと歎く。初句切れの開き直ったような、その言葉もすでに涙に潤んでいるのも巧みな技法の効果であろう。「あらば逢ふ夜」は、むしろ「世」すなわち一生の趣が濃く、絶望の色さえ漂う。「かたしくも凍れる袖の湊川なみだ浮寝に寄る船もなし」が「冬恋」の題で見え、これも技巧の勝った歌である、と。


 近江にか有りといふなる三稜草くる人くるしめの筑摩江の沼     藤原道信

拾遺集、恋一、女の許に遣はしける。
天禄3(972)年−正暦5(994)年。太政大臣為光の子。母は伊尹の女。従四位左近衞中将にいたるも23歳で夭折。歌名高く、大鏡などに逸話を残す。拾遺集以下に49首。小倉百人一首に「明けぬれば暮るるものとはしりながらなほ恨めしき朝ぼらけかな」が採られている。
三稜草(ミクリ)−ミクリ科の多年草。沼沢地に生える。球状の果実を結び、熟すと緑色。
筑摩江(ツクマエ)−筑摩神社のある現・滋賀県米原市朝妻筑摩あたりの湖岸。
邦雄曰く、朝妻筑摩の筑摩江には菖蒲や三稜草も生うという。繰る繰る三稜草のその名のように、人を苦しめるだけの女であった。大鏡にその名を謳われたいみじき歌の上手、貴公子道信は23歳を一期として夭折する。それゆえに、なおこの呪歌は無気味である。その苦しみは近江=逢ふ身につきまとう業と、作者は諦めつつ、なほ女を恨んでいた、と。


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