夏の池に寄るべさだめぬ浮草の‥‥

Hokusaimanga

−表象の森− 北斎漫画」を観る、読む

反骨と奔放、貪欲な好奇心と枯れることなき創作意欲を燃やし続けた北斎
90年に至る生涯のいまわの際になお、「あと十年、いや五年生かしてくれたら、ほんとうの絵描きになれるのに‥‥」と洩らしたという北斎
昨年の9月、小学館より刊行された「葛飾北斎−初摺−北斎漫画」は、原寸色刷りで全15編をすべて一冊の大部に収めた書なのだが、このほど図書館からやっと借り受けてひととおり飽かず眺めわたしてみていた。こういう時間は望外の喜悦であり、道楽以外のなにものでもないが、それにしても恐るべき巨魁とただただ感じ入るばかりだ。
彼が「北斎漫画」初編を出版したのは文化10(1813)年、54歳だったという。はじめは名古屋で出版されたこの絵手本シリーズは、ずいぶんと好評を博し、その後続々と出版され、60歳の年に第10編を出して一旦「大尾」と謳ったにもかかわらず、さらに11、12と続いたらしい。そして、北斎の死後、門人たちの手でもって3編が出版され、全部で15編となるのだが、最後の第15編が出たのが維新をはさんで明治11(1878)年だというから、恐れ入谷の鬼子母神。初編出版からなんと65年をかけての完結となった訳である。
各編にはそれぞれ当代きっての人気者文化人が、序文に北斎讃の健筆を奮っているが、これがまた愉しい。


第3編の序文は、蜀山人こと太田南畝だ。
「目に見えぬ鬼神はゑがきやすく、まぢかき人物はゑがく事かたし。−略− ここに葛飾北斎翁、目に見、心に思ふところ、筆を下してかたちを成さざる事なく、筆のいたる所、かたちと心を尽さざる事なし。これ人々の日用にして、偽をいるる事あたはざるもの、目前にあらはれ、意表にうかぶ。しかれば、馬遠(中国南宋の代表的画人)・郭熙(中国北宋の代表的画人)が山水も、のぞきからくりの三景に劣り、千枝常経が源氏絵も、吾妻錦の紅絵に閉口せり。見るもの、今の世の人の世智がしこきをしり、古の人のうす鈍(のろ)なるを思ふべし。」と記しているが、蜀山人は第6編にも序文を寄せている。


第7編は天下の名所図絵特集となっているが、これにはやはり戯作者の式亭三馬が序文を担当。
「−略− きのふは深川の渡り、広幡の八幡の御社に為朝の神の拝まれさせ給ふを、これかれ誘ひつれて行きつ、けふは橋場の浅茅が原にほととぎす聴きに等、−略− 待乳の山をこえ、猿橋をわたるに、田鶴の諸声、雲井にひびくは、尾張桜田なるべし。−略− 花に、紅葉に、月に、雪に、春秋のながめも只ここ許にあつまりて、楽しとも、嬉しとも、いふばかりなきを、小野の瀧のみなぎり落つる音、耳に入りて身じろげは、云々。」と書く。


「大尾」のあとの第11編では、柳亭種彦の登場とあいなり、
「畫論に凝りて筆の動かざるは、医案正しく匙のまはらざるにひとし。古人の説を活動し、病を癒すぞ良医なるべき。されば、画人も亦然り。古法の縛縄をぬけいで、花を画かばうるはしく、雪を画かば寒く見ゆるを、上手とこそはいふべけれ。−略− 真をはなれて真を写し、実に一家の画道を開けり。往ぬる文化それの年より意に任せ、筆に随ひ、何くれとなく画きたるを既に十巻刊行なししが、それにさへ飽きたらず、需(もとむる)者しげきにより、翁ふたたび筆をくだし、漏たるを拾ひて、速かに此巻成りぬ。−略−」といった具合だ。


これは巻末の対談のなかで紹介されているエピソードだが、所はアメリカのニューオリンズ美術館。館内のミュージアム・ショップで「RULERS of ART WORLD」なる物差しが売られているのだが、この物差し、片面はセンチとインチの目盛りが入ってなんの変哲もないが、もう片面には、ギリシャ時代から現代までの35人の美術家の名が、年代順に刻まれており、日本人で唯一人、葛飾北斎の名があるという。北斎の次にはイギリスのジョン・コンスタブル、その次がフランスのエドガー・ドガが並んでいるそうな。
RULERS of ART WORLD−美術の世界の支配者たち−というほどの意味だが、世界の美術史のなかで北斎への評価はかほどに高いことを、日本のわれわれはあまり意識したことがないし、そういう物差し−価値基準で北斎を観ることもあまりない、というギャップにいまさらながら驚かされる始末だ。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏−44>
 夕顔の露の契りや小車のとこなつかしき形見なりけむ   足利義尚

常徳院詠、文明19(1487)年5月21日庚申に詠める、夏車。
邦雄曰く、夏の夜のはかない逢瀬、牛車で忍んで行って、暁の来ぬまに帰るあわただしい後朝、昨夜開いた夕顔の花に残る夜露のような、かすかな契りではあったが、常懐かしく、忘られぬ人であったと歌う。車の床との懸詞の技巧めくところもこの時代の特徴であろう。「あやめぐさおなじ姿におきなれて枕の露や光添ふらむ」は、「夏刀」題で、同趣向の老巧な歌、と。


 夏の池に寄るべさだめぬ浮草の水よりほかに行く方もなし   藤原興風

亭子院歌合、夏。
邦雄曰く、宇多法皇の故后温子の邸亭子院で歌合の催されたのは延喜13(913)年3月、貫之・躬恒・伊勢ら錚々たるメンバーが連なった。小町の名歌「侘びぬれば身を浮草の根を絶えて誘ふ水あらばいなむとぞおもふ」に似て、水に委ねる運命を、わが身の上にたぐえての述懐歌。なお、この歌、続後撰集の夏の部には、詠人知らずで採られている、と。


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