武蔵野や行けども秋の果てぞなき‥‥

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Shihohkan Dace-Café


−表象の森− ハードル走者・為末大の進化論

世界陸上競技界の第一線で活躍するハードル走者・為末大の「ハードラー進化論」というとてもいい一文を読んだ。
ハードラー−Hurdler−とはハードルの走者、つまりは為末大自身のことだ。
毎日新聞のスポーツ欄に月1回ペースで連載され、私が読んだのは9月6日掲載分、連載4回目らしいが、私の眼にとまったのはこれが初めてで、なにげなく読み出しところが、さすが世界に冠たる一流のHurdler、子どもの頃から一身を競技に賭けて身体技術を磨きぬいてきた者だけが語りうるその技術論は、見事なまでに核心を突いて身体技法の奥義に迫っているかと思われ、大いに肯かされ、感嘆もさせられた。


「終りなき身体の覚醒」と題された一文は、タイトルそのものにもまったく同意するところだ。
「技術というものには段階がある。初めのうちは、力を入れられなかった部分の筋肉に、力を入れて動かすことから始まる。そのうちにリラックスできなかった部分から力が抜けて、動きが磨かれていく。技術革新とはこの繰り返しだと私は考えている。」
との簡潔な書き出しは正鵠を得ているがほんの序論に過ぎない。真骨頂は永年の経験のうちに徐々に研ぎ澄まされてきた身体感覚であり、それに裏づけられた身体技術のさまざま具体的な自覚であるが、この進化、いや深化というべきか、そのプロセスのひとつひとつが、われわれのような表現における身体技法を尋ねゆく者にも、示唆に富んでいて大いに刺激もされ、また得心のいくものになっている。


「私が陸上競技を始めた小学生の時には、脚全体を使い、脚で地面を踏むという感覚で走っていた。高校生の頃には背筋や腹筋も使い、地面に身体を押しつける感覚になってきた。感覚としては全身を使っているし、このあたりが技術の飽和点かなと思っていたが、現実はまったく違った。」
なにしろ1996(H8)年のインターハイや広島国体で高校新やジュニア新をマークして優勝したスポーツ・エリートであれば、高校時代においてすでに「技術の飽和点」を意識するというのも尤もで、世阿弥でいえば少年期の「時分の花」が頂点を向かえるのに相応しようか、われわれ凡百の徒にすれば「ただ羨ましきかな」である。


「大学生の時に少しスランプに入り、再び調子を戻した時には新しい感覚が生まれていた。全身を使って力を入れるのではなく、膝から下や、肘から先の力が徐々に抜けてきたのだ。末端の余計な力が抜けると、根元の部分を動かすことで末端を楽に振り回せる。そして腕や脚がシャープに動くようになった。」
為末大は、多くの陸上競技選手のなかでも専任コーチを持たず、自らトレーニングプランや食事の内容などアレンジしていくという点で、きわだって特異な存在であるらしい。学生時代の後半から学校やチームという「枠」に縛られずに、さまざまな人からアドバイスを得て最終的な判断は自身で行うという、日本では稀有なスタイルで自らをコーチングするというのだ。彼がそういうスタイルを採るようになったのは、引用の「末端の余計な力が抜け‥‥、根元の部分を動かすことで‥‥、腕や脚がシャープに‥‥」といった発見や身体部位への自覚が大いに与っているにちがいない。


「昨年あたりからは、腹筋と背筋の両方へ同時に力を入れるのではなく、交互に力を入れることを意識している。身体がねじれては戻る、という動きができるようになり、肩関節と骨盤付近を結んでいる筋肉も大きく使えるようになった。それによって脚の入れ替えがスムーズになり、今年の大きなストライドを生んだと考えている。」といい、
 さらには、「これで終りだと思っていた技術革新がまだ進んでいる。どのあたりで止まるのか見当もつかない。高校生の頃に全身を使って走っていたことに満足して、そこで終りだと考えていたら今はなかったろう。最近は肋骨の奥の方も動かしているらしく、時々筋肉痛になるときがある。これを何度か繰り返していけば、そのうちにその筋肉が完全に目覚めて強く働くようになるだろう。そうしたら次は、その筋肉につられて働いている別の筋肉から、余分な力を抜くことが課題になる。」
と綴っているのだが、自身のさまざまな身体の知覚に基づき、自らの想像力を羽ばたかせ、競技者としての身体技術を自分自身でコーチングしていくというスタイルを身につけた彼は、「イメージした動きを具現化する能力に優れている」と評されるように、独自の変貌=進化をかぎりなく遂げていくのだ。それは「花伝書」を著した世阿弥のように、或いは「五輪書」を遺した宮本武蔵のように、孤高の達意といった境地にも、私には見える。


彼自身「終りなき身体の覚醒」と題したように、その眼差しが捉える射程は遙かに遠く、この一文を次のように結んでいる。
「最終的には爪や神経、細胞のように、意識して動かすことができないと思われている部分ですら、自分の意思で動かしながら走ってみたい。」


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋−57>
 秋風に消えずはありともいかがせむ身を浮雲のゆくすゑの空    飛鳥井雅親

続亞槐集、恋、文明十九年十二月、日吉社法楽百首続歌に。
邦雄曰く、挽歌の趣のやや淡い、むしろ述懐に近い味わいあり。ただ初句の「秋風」が、歌に細みと寂びを感じさせ、ひいては物思いにやつれた、この世の外のあはれが滲んでいる。15世紀末、二十一代集以後の堂上歌人の中に際立った大家、ゆとりと貫禄はこの一首にも明らかだが、和歌が歴史の中で身につけた言語感覚の垢もまた、どこかに見える、と。


 武蔵野や行けども秋の果てぞなきいかなる風か末に吹くらむ    源通光

新古今集、秋上、水無瀬にて、十首歌奉りし時。
文治3(1187)年−宝治2(1248)年、内大臣土御門(源)通親の三男、後嵯峨院政の時、従一位太政大臣に。後鳥羽院や後嵯峨院歌合で活躍、宮内卿や俊成卿女などと詠を競った。笛の名手でもある。新古今集以下に14首。
邦雄曰く、元久2(1205)年6月の元久詩歌合作品。通光は、建久の政変の知恵者で悪名高い通親の子、この時弱冠18歳。新古今歌人中では最も若く、宮内卿と並ぶ早熟の天才であろう。「秋の果て」も含みのある言葉だが、下句にこめた思いの深さも抜群といえよう。「はて」と「すゑ」の上・下における対比で、この一首の宇宙を形づくった才も凡手ならず、と。


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