秋萩をいろどる風は吹きぬとも‥‥

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−表象の森− 他者による顕身

前回(10/2)、「顕つ/顕われる」という語について書いた。

市川浩が著わした「現代芸術の地平」には、「他者による顕身」と題された、演出家・鈴木忠志の方法論的根拠によく肉薄した一文がある。「顕身」なるコトバもまたいずれの辞書にも登場しない造語だが、鈴木の演劇世界を支える特権的俳優論を「他者による顕身」と集約してみせる手際は見事なものだと思われる。少々長くなるが以下に抜粋引用しておきたい。


<他者による顕身>−鈴木忠志の演劇的思考

 鈴木忠志は演劇と舞踊にある特権性を認めている。それは演劇や舞踊が文学より優位だという意味ではない。詩や文学がめざしている原初的な形態というものは、身体が担っている意味から切り離すことができず、その限り身体を中核にした演劇や舞踊のなかにその源泉があるという意味である。
鈴木忠志の演劇は、しばしば自閉的印象を与えるにもかかわらず、舞台づくりの中核にあるのは<他者>の問題である。それによって彼は<劇的なるもの>を回復しようとしたのである。

 鈴木忠志世阿弥にみるのは、対他存在としての自己の陰惨ともいえる深い自覚である。役者とは、存在そのものにおいて見られ、奪われる存在にほかならない。世阿弥の「花鏡」の一節を彼は引く。

 「舞に目前心後ということあり。眼を前に見て、心を後に置け、となり。(略) 見所より見るところの風姿は、わが離見なり。しかれば、わが眼の見るところは、我見なり。(略) 離見の見にて見るところは、すなわち見所同心の見なり。そのときは、わが姿を見得するなり。わが姿を見得すれば、左右前後を見るなり。しかれども、目前左右までは見れども、後姿をば未だ知らぬか。後姿を覚えねば、姿の俗なる所を知らず。さるほどに、離見の見にて、見所同心となりて、不及目の身所まで見智して、五体相応の幽姿をなすべし。これはすなわち、心を後に置く、にてあらずや。」

鈴木忠志はこの一文のなかに、演技の本質についての今も変らない鋭い直観をみてとる。その背後にあるものは、第一に、人間は身体をもつだけで他者によって所有される対他存在として疎外されているという認識であり、第二に、そのように他者による疎外のもとにありながら、それを逆転して自己自身を不断に創造してゆこうとする人間の行為は、舞台空間においてのみ純粋な形で可能になる、という直観である。
他者に見られることを前提としながら、可能的自己を想像するダィナミックな意識であり、それに支えられて展開する演技的自己意識である。今なお古くならない世阿弥の独自性は、「演技を俳優の行為と、それに臨場する観客の行為と、二つの項をもちながらも、たえずひとつの全体性としてしか働かない関係のなかで考えようとする一貫性にある」と鈴木は述べている。


−自己顕示としてのナルシズム−
 対他存在として生きるということは、たえず他者によって所有される他有化を前提として生きるということである。俳優にとって本質的である他有化は、単に見られる恥ずかしさといったものではなく、拭おうとして拭いえない深い屈辱感であり、またそのような存在を引き受ける<私>への深い自己嫌悪を伴なわざるをえないものであろう。私は私ではなく、他者のまなざしのもとで、どうしようもなく私自身からずれてゆく。鈴木が俳優の演技衝動の発出点として捉えるのは、こうした自己存在と自己意識とのずれであり、自分であることの不可能性である。逆にいえば演劇とは、このように他者によって疎外され、非現実化している自己を現実性として取り戻そうとする行為にほかならない。そのかぎり演劇は、社会生活のなかで歪められ、疎外されている自分から解放され、自己を顕す行為として万人の行為であるといえよう。演劇をとおして観客が共有するのは、この見心あるいは顕身の行為である。
 これは自己顕示としてのナルシズムではないだろうか。ナルシズムは他者を消すことによって、あるいはむしろ他者をもう一人の私で置き換えることによって、自己の対他存在を無限に自分が想像する私に近づけるからである。そのかぎりナルシズムに支えられた自己顕示は、どうしようもなく他者である見所の眼を失わせ、容易に自己批判の喪失と自己模倣の頽廃へと俳優を導く。これは演劇がもっとも陥りやすい陥穽であるのはいうまでもない。鈴木が考える真の俳優は、俳優として自己自身を否定しつつ、同時に俳優であるために不可欠である他者の眼に身をさらして生きることが必然的であるような疎外された存在である。その他者との緊張関係を身体的に生きるとき、俳優は真に俳優らしく実在する。そのかぎり、俳優にとって対他存在としての屈辱感と自己嫌悪は、彼の存在そのものに食い込んでおり、会心の演技のうちにも滲み込んでいる。別役実白石加代子の演技について「歌舞伎よりすごく見えるとすれば、それは自己嫌悪でやっいるからだ」といい、「あまりナルシズムをつきつめると自己嫌悪に移り変わるときがあるんだな。そこまで行ってしまうと演技も奇妙になっていいんだよ。加代子の場合はきっと自己嫌悪の快感を知ったんだな」と評しているのは、ナルシズムの自己顕示と、背後に自己嫌悪を隠した顕身との微妙なずれを述べたものといえよう。鈴木忠志世阿弥について「ナルシズムと自己嫌悪の心情のはざまが、世阿弥の生きた緊張である」と指摘している。


−共同体と闇−
 演劇は人間がどうしようもなく関係的存在であることを前提としている。たとえその関係がディスコミュニケーションという離散的な関わりであろうとそうなのである。<孤立>でさえ、不在の<関わり>を背景として浮かび上がる<図>である。演劇において、その最後に浮き出すものとは何か。鈴木忠志は、それは人間の普遍的な本質ではなく、他者との本質的な違いだという。その違いの根拠の深さが、個的な本質を顕わにする。関係において本質があらわれる。と同時に他者との違いにもかかわらず、類としての共同体につながる共同性の闇が顕れるとき、劇的人間像が描き出されるのである。鈴木のめざす本質は、人間に共通の本質でもなければ個性でもない。さまざまの関係と出会いのなかで、どうしようもなく析出される個的かつ共同体的な本質である。
 鈴木忠志の意識についての興味深い実践的定義によれば、意識というのは、自己の隠れている部分に投企する一つの仮説なのだ、と。俳優の意識は過去の既定の自分に拠りながら、未定の可能性である未来の無意識に向かって投企する演劇的行為そのものとなる。それは、他人との関係のなかに見えない自分を見ることであり、他人との出会いをとおして自分の眠っている可能性を呼び覚ますことである。
鈴木忠志の舞台においては、個の追いつめをとおして共同体的な闇にいたり、闇の追及をとおして日常われわれがどっぷり浸かっている個的状況と制度的集団性を同時に批判するという両義的な視点が出てくる。舞台はその意味では、日常において抑圧され、疎外されざるを得ないものの復権の場であり、それを鈴木は日常の<本然化>と呼んでいる。
          ――引用:市川浩「現代芸術の地平」岩波書店

<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋−66>
 秋萩をいろどる風は吹きぬとも心は枯れじ草葉ならねば  在原業平

後撰集、秋上。
邦雄曰く、女からの贈歌「秋萩をいろどる風の吹きぬれば人の心も疑はれけり」への返歌である。萩の葉を黄変させる風にも、草ならぬわが心ゆえ枯れず、君から心は離(カ)れずと慰めてやる。大和物語第百六十段は女を染殿の内侍として、この贈答の挿話を載せている。但し業平の初句は「秋の野を」。言葉を違えて男は女を離れ、この物語は幕切れとなる、と。


 わが屋戸の夕影草の白露の消ぬがにもとな思ほゆるかも  笠郎女

万葉集、巻四、相聞、大伴宿禰家持に贈る歌二十四首。
生没年未詳、天平期の歌人、笠金村の娘かとされ、大伴家持への熱情溢れた恋の歌で知られる。
邦雄曰く、夕影草は朝顔あるいは木槿の異称ともいい、また夕刻ものの蔭にある不特定の草を指すのを通例とする。燃える思いの煙とは逆に、露さながら消え入りそうに愛する人を一途に思い続ける女心。二十四首はそれぞれに激しい情熱を迸らせて圧倒的であり、高名な「八百日(ヤホカ)行く浜の沙(マナゴ)もわが恋にあに益(マサ)らじか沖つ島守」もこの一連の中に含まれる。


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