かひもなし問へど白玉乱れつつ‥‥

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−世間虚仮− 同窓会二題

今朝、やっと小学校時代の同窓会案内を郵送した。
高校(市岡高校15期)の同窓会案内を作り送付したのは先月の下旬だった。此方の開催は12月3日でまだまだ先のことだけれど、従来の趣向を変えて些か取組み難いバスツアーとしたので、極力早い知らせのほうがよいとした訳だ。同期生384名だったか、消息不明や物故者が100名余、280通ほど送付したことになるが、企画の特殊性?を考慮すれば、参加は50名ほどにしかなるまいと予想している。
  −写真はその市岡15期会同窓会の案内書面−
それで一段落するまもなく、昨年暮れからの宿題にしていた小学校の同窓会を取り決めて11月23日と挟み込んだから慌ただしかったのだが、此方のほうは100名余りいた同学年も消息の知れているのは半数たらず。もともと30年余り昔に一度やったきりの、その時だって卒業時の古いアルバムを引っ張り出して、まるで付け焼き刃に連絡を取り合ったものだが、すでに半数位にしか行き届かなかったのだから、それが50代の声を聞いてやおら復活してみても、消息の辿りようもあるはずがない。以来、ほぼ3年毎に繰り返しているが、3年前の再開3度目の会では集まりも20名ほどと少なく、なにやら寂しい思いにとらわれたものだった。その席で、次回の幹事は私にとご指名があったので、「3年後なら、恩師も喜寿を迎えることだから、それをタネにやらずばなるまい」と、そのときからある一つの決め事を胸に抱いてきた。
そもそも、恩師とはいうものの、ぼくらはおそらくみんなひとしなみに彼自身のことをほとんどなにも知らないままに生きてきている。それでいて同窓会だからといっては恩師を呼びつけて(お招きして)みんな寄り合うのだが、席上、呼ばれた恩師がうっちゃられたままにぽつねんと独り侘しく座していたりすることがたまさか起こったりする。お互いのあいだにおいても、共有の感覚が濃密というには些か遠く、なにか稀薄としか思えぬ、あるいは遠慮というべきか、互いに相手とのあいだには薄い皮膜があるような気がしてならないのだ。折角わざわざ寄り合って、却って互いに遠くなっていく、求心力がないから、なし崩し的に遠心力のはたらくままになっているのだろう。この集まりには、ひとまず求心力が必要だ。求心性も過ぎれば却って仇となるのは百も承知の上だが、なければ元も子もないというもの。
さて、そこでこのたびは恩師の喜寿の祝いの席とすること、といってもそんなことはよくあることでこんなモティーフだけでどうにかなるものでもあるまい。そこで、これまで卒業という儀式を通過してからでも50年このかた、何にも知らないで済ませてきた恩師個人を、その出生から今日に至る生涯を尋ねてみることにした。尋ねて個人史的なメモとしてともかくも形にしてみた。煩瑣にはなるが、題して「聞き書、河野二久物語」なる小文を今度の同窓会案内にしたため、今朝やっと送付したわけだ。
ヤレヤレ、同窓会ひとつ、世話のかかること夥しいが、どうでもいいようなことに血道を上げている御仁−もちろん私自身のことだ−はもはや老人閑居の類に成り果ててしまっているのかもしれぬ。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋−69>
 かひもなし問へど白玉乱れつつこたへぬ袖の露の形見は  民部卿典侍

拾遺集、恋五、恋の歌とてよみ侍りける。
建久6(1195)年−没年未詳、藤原定家の長女、母は藤原実宗女。11歳で後鳥羽院に出仕、承久の変の後、後堀河院に女房として仕えた。勅撰集に24首。
邦雄曰く、報われぬ愛の悲しみを、涙を払うかに、諦めの色濃く初句切れで歌い放ち、「伊勢物語」の「白玉か何ぞ」をひそかに踏まえつつ、「露の形見は」と突如歌い終わる。その気息はただならぬものがある。民部卿典侍藤原定家の女、為家は同腹の3歳下の弟であった。父の古書筆写を手伝い、明月記には「父に似て世事を知らざる本性か」の記事あり、と。


 露は袖にもの思ふころはさぞな置くかならず秋のならひならねど  後鳥羽院

新古今集、秋下、秋の歌の中に。
邦雄曰く、上句が6・8・5音の乱調、うつむき勝ちに、沈思するさまが、その調べにも酌み取れる。涙の露、それはもの思いゆえで、秋のせいではないと、重い響きに托する。新古今では、この歌の前に、寂蓮の院初度百首歌「もの思ふ袖より露や習ひけむ秋風吹けばたへぬものとは」を置く。自然が人の悲しみに随うという、類想のなかでは際立った一首、と。


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