起きわびぬ長き夜あかぬ黒髪の‥‥

Nakahara0509180771

−表象の森− フロイト=ラカン:「主体」と「自我」、「鏡像段階」と「ナルシシズム
     ――Memo:新宮一成・立木康介編「フロイト=ラカン」講談社より


「主体」⇔「自我」
・社会的存在としての人間は、言語の場である象徴界−大文字の世界−において自らを確立し、そこで自らの生を営んでゆく。
ラカン象徴界への主体の参入を一つの論理的なプロセスとして捉え、それを「疎外」と呼んだ。
シニフィアン−能記・記号表現−は主体に先存し、主体に対して優越性を持つから、厳密な意味での「主体」というものが生じるのは、大文字の他者の地平に一つのシニフィアンが現れることによってである。
・主体は、一方でシニフィアンとして他者からの認知を獲得すれば、他方でまさに「存在欠如」となることを受け入れることを余儀なくされる。
ラカンにおける「主体」とは、このようにシニフィアンの構造によってはじめから分裂を被った主体であり、デカルトの「コギト」はこの分裂した主体に冠される一つの名である。
ラカンの(疎外における)主体は、フロイトの「自我」そのものではなく、「自我」を構成する表象群の構造のうちにその起源を見出すだろう。


鏡像段階」⇔「ナルシシズム
鏡像段階とは自我の根底に他者を住まわせる契機である以上、自我は本来的に他者のイメージと入れ替わり可能である。
「無意識とは、私の歴史の中の、すっかり空白になっている一章、あるいは嘘が書き込まれている一章である。それはつまり、検閲された章である」
人々は今日、歴史について、普遍的なものよりも個別的なものに、語られたことよりも語られなかった(語りえなかった)ことに、そして想起されることよりも想起されない(想起されえない)ことに、注意と関心を向けるようになった。
つまり人々は、一つの国民や民族の歴史として、あるいは一つの家族や個人の歴史として出会われるものの中に、まさにその「無意識」を聴き取ろうとするようになったのだと言ってよい。
一つの出来事がある主体によって記憶され、その主体の歴史の中に縫い込まれてゆくとき、この出来事と記憶の間には決定的なズレが入り込む。それは、歴史が徹頭徹尾「象徴的な」ものだからである。
出来事と歴史と間のズレこそが無意識の場である、と最初に発見したのはフロイトであり、
心的外傷という形で見出される歴史的真理、すなわち精神分析にとっての歴史的真理は、記憶として語られるものの中にではなく、語られないもの、語り得ないもののなかに探求されねばならなかった。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋−68>
 おほかたの秋だにあるにわが袖は思ひの数の露よ涙よ  邦高親王

邦高親王御詠、秋恋。
康正2(1456)年−享禄5(1532)年、室町後期の皇族、伏見宮貞常親王の長子。琵琶を能くし、和歌を好んだ。「邦高親王御百首」が伝えられる。
邦雄曰く、秋はさらぬだにもの悲しく、涙せぬ日はないのに、人恋うるゆえの涙は、降り結ぶ露と共に袖を濡らす。秋の忍恋のあはれを盡したところ、さすがの手練れである。同題「つれなさは夕べの秋を限りかはなほ有明の月もこそあれ」もまた、人を魅するような纏綿の情を奏でて見せる。16世紀初頭の華、と。


 起きわびぬ長き夜あかぬ黒髪の袖にこぼるる露みだれつつ  藤原定家

拾遺愚草、上、関白左大臣家百首、後朝恋。
邦雄曰く、愛する人の黒髪は袖に濡れ、秋の夜長のその長ささえまだもの足りぬ今朝の別れ、盡きぬ名残に、涙の玉は乱れ散って、袖の上に露を結びかねている。初句切れは軟らかく目立たず、連綿纏繞、絡みつくような調べはいささか濃厚に過ぎるくらいだ。用言の多用がなせるわざでもあろう。作者既に晩年、病苦に悩みつつも、いよいよ技巧は冴え渡る、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。