忘れずよ朝浄めする殿守の‥‥

Kijyukinenkujyominami06112

−四方のたより− 行き交う人びと−河野二久物語

河野二久とは小学校時代の恩師である。5年と6年の担任だった。当時のことだから旧師範を出た若い先生で、26.7歳だったであろうか。来春早々の誕生日で満77歳になるというので、このほど喜寿を寿ぎ同窓の集いをすることとなった。
日取りは些か急なるも秋の内にということで11月23日、会場は市岡芋づる会のお仲間でもある九条新道近くの宵望都にお願いした。

九条南小S31年度卆同窓会
「河野先生の喜寿を寿ぎつどう−1−」
「河野先生の喜寿を寿ぎつどう−2−」


「聞き書、河野二久物語」


−九条南小時代の思い出断章−
「九条南小時代の十年は、まだ独身だったから、柏木先生など所帯持ちの先生と交代したりするせいで、三日に一度は宿直で学校に泊まっていたなあ。」とその眼差しは遠くを見やりながら懐かしそうに語りはじめた先生。「宿直の夜はきまって米を持参して自炊。よく女の子たちはおかずの買い出しに行ってくれたし、夜になると男の子たちがぞろぞろやって来ては、お化け屋敷ごっこして遊んでいたな。」という先生には宿直にまつわる懐かしいエピソードは汲めども尽くせずなのだろう。
放課後も毎日のようにみんなと暗くなるまでよく遊んだという先生。今にして思えば、ぼくらが遊んで貰ったのか逆に遊んでやったのか、どっとも言えないのではないか。運動会での組立体操の取組みをずいぶん熱心に主導して、みんな熱心にやったからまあまあの成果が上がったこと、これは正調教員としての思い出。「真冬の寒い日、補習授業で何人か残っていたとき、夕方暗くなると、だれかのお母さんが様子を見に来て、そのまま帰ったと思ったら、ほかほかの焼き芋を持ってきてくれてネ、これが美味しくて、嬉しかったなあ」と。この母親はだれだろう? まだうら若い母親だったとしたら、先生、少しばかり胸をときめかしていたのかもしれないぞ。(コレは此方の逞しき想像)


−代々僧家、大坂夏の陣で寺焼失の憂き目−
河野二久、昭和5年1月4日、堺市中之町東3丁24番地に生まれた。
恵美須町から浜寺まで今も一両きりのチンチン電車が走る阪堺線、その宿院寺地町界隈は昔から神社仏閣の建ちならぶ、嘗ての自治都市堺の顔とも言うべき一帯。古くは千利休の屋敷跡もあり、与謝野晶子の生家跡もある。
父は通(トオル)氏、母は二久が1歳に満たぬ間に死亡したという。兄と姉につづいて次男として生れたが、上の二人は幼くして早逝したので実質は長男として育つ。母親に死なれ、父は後添を迎え、そのあいだに三女をもうけた。
河野家は代々続いた僧家であった。父・通氏で18代目だという。通氏は僧籍を有しつつ、小学校の教員もしていた。堺市内の小学校、後には大阪市内の小学校にも勤めた。おもしろい偶然だが、天王寺師範(現・大阪教育大)を卆えて大阪市教委に採用された弱冠二十歳になったばかりの二久が、九条南小に初めて赴任してきた時、父は九条北小に奉職していたという。当時、親子二人が毎朝同じ家を出て九条まで通い、北小と南小に別れ、子どもらを相手に教鞭を取っていたわけだが、そんな日々が父親の退職を迎えるまで3年続いたというのだ。
祖父は知らず、二久が生れる以前に他界しているが、僧でありつつも小学校の教鞭をとっていたらしい。祖父、父、二久そして息子と、明治後半から4代続いた教職家系である。祖母は二久13歳の頃まで生き、実母を早く亡くした孫をよく可愛がり、またよく躾けたようである。まだ幼い頃だが、その祖母に連れられて、一度だけ、大阪市福島区の母親の実家を訪ねたことが記憶の片隅に残るという。実母との縁の糸はそれのみか。
代々僧家だったという河野家の初代は真宗大谷派常満寺住職。父親で18代目だから、二久本人で19代、高校の英語教師という息子さんで20代となる。仮に一代30年とすれば600年を遡ることになるから、初代発祥は室町時代中葉頃かと推測されるが、好事魔多し、時は移って豊臣家滅亡となる大阪夏の陣のさなか、前の冬の陣以後、徳川方に占拠されるようになった堺の豪商たちは東軍の御用商人となっていたのだが、これを恨み、報復の意もあって、大阪方の大野治胤は、ほとんど無防備だった堺の焼討ちを断行するという事件があった。どうやら、河野家先祖の寺は、この折りに焼失の憂き目をみたらしい。時に慶長20(1615)年4月28日のことで、大阪城の落城はその十日後の5月8日であった。
寺は焼失したとて、檀家は残る。以後、河野家は寺を持たぬ僧家として残った檀家に支えられ父親の18代まで継がれてきたというのである。


−長くもあり短くもあり、77年の来しかた−
1931(昭和6)年の「満州事変」以後、満州の植民地化から十五年戦争、そして太平洋戦争へと雪崩れこみ、国家総動員体制下の戦前を生きた幼少年期。そして空襲、敗戦、廃墟と混乱から戦後の復興期に学生時代を経て小学校教員へと歩み出し、以後、教員一筋の40年余。
小学校入学は昭和11年、明治5年創立という少林寺尋常小学校。万年山少林寺の境内に建てられたことに由来しているように、校区内には現在でも南宗寺をはじめ30を超えるお寺が在る。正門には与謝野晶子の歌碑もあり、歴史と伝統ある地域の学校として今日に至る。
旧制府立堺中学(現・三国丘高) いわゆる大阪府第二中への入学は昭和17年。太平洋戦争の真っ只中、1年生の時こそ授業も平常で勉強できたものの、2年生からは勤労奉仕に狩り出されてばかりで勉強した記憶はほとんどない。3年に進級してからは堺化学工場にずっと勤労動員。
4年の夏、終戦となるが、その前月の7月10日、堺大空襲に遭い、自宅は焼失。その後の数年間、昭和26年4月、大阪市住之江区中加賀屋の教員住宅に居が定まるまで、仮のわび住まい状態がつづいた。
昭和22年4月、大阪第一師範学校(俗に天王寺師範−現・大阪教育大)へ進学、25年3月卒業。当時は旧制高校に準じた3年制であった。
卒業と同時に大阪市へ小学校教員として奉職、教員としての略譜は以下のごとく。
 S25年4月、西区、九条南小学校赴任、 ―10年間
 S35年4月、港区、築港小学校赴任、  ―10年間
 S45年4月、東住吉区、矢田小学校赴任、―8年間
 S53年4月、城東区、東中本小学校赴任、―12年間
 H2年3月、60歳にて大阪市教委を定年退職。
 H2年4月、東住吉区、城南短期大学附属小学校へ勤務  ―6年間
 H8年3月、  同上退職。
しかし、一昨年(H16年度)も城南から欠員が出たため急遽依頼され、6ヶ月間の臨時勤務をしている。
自宅から道路を挟んで城南の校舎があるという、文字通り眼と鼻の先だから重宝されたと見え、こういうケースはたびたびあった、という。


−家族たち・趣味の世界、老後の日々−
幼稚園教諭であったという夫人との結婚は昭和39年11月。友人の紹介で知り初めた。
翌40年には男児に恵まれ、44年には女児が誕生して、一男一女。長男は親同様に教職に進み、奈良県にて高校の英語教員をしている。既に結婚しており、一男(7歳-小2)一女(5歳)あり。長女は未婚、栄養士として病院に勤務。
ゴム版画と写真は若い頃から趣味としていたが、近年は、今春、みんなにお知らせした「コゲラ展」のように木版画を楽しんでやっている。毎日文化センターの木版画教室に通ったのがちょうど10年前で、以来ずっと隔週ペースで通いつづけている。また、地域の学校開放による「ゆざと軽スポーツクラブ」では卓球を週1回の集いで楽しんでいる。以前は、遺跡発掘の現地説明会などを新聞などで見つけると、よく聞きに行って、写真を撮ったり関連資料をスクラップしたりしたものだが、最近は些かご無沙汰気となっている、とざっとこんな次第である。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋−71>
 尋ねつる心や下に通ふらむうち見るままに招く薄は  藤原清輔

清輔朝臣集、秋、秋野逍遥しけるに薄の風になびくを見て
邦雄曰く、薄の擬人化はいずれも同工異曲、「招く」に帰するようだ。この歌の以心伝心、薄との交感など、薄の歌群中でも殊にねんごろなものだろう。清輔には薄題が多く、家集にも「武蔵野にかねて薄は睦まじく思ふ心の通ふなるべし」「糸薄末葉における夕露の玉の緒ばかり綻びにけり」等、心を盡した調べである。「尾花」はむしろ用例が少ない方だ、と。


 忘れずよ朝浄めする殿守の袖にうつりし秋萩の花  後嵯峨院

後撰集、秋上、九月十三夜、十首の歌合に、朝草花。
邦雄曰く、主殿寮の役人が朝々、宮中を清掃する姿は、拾遺・雑春に「殿守のとものみやつこ心あらばこの春ばかり朝浄めすな」が見える。御製は調子の高い初句切れで始まり、絵巻物の残欠のように美しい。第四句は花摺となって色を移したことを、また匂いを止めたことをも言うのだろう。十三夜歌合の回想詠としても、なかなの趣向、まさに忘れ難い、と。


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