ふるさとは浅茅がすゑになりはてて‥‥

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−表象の森− 「塔に幽閉された王子」のパラドックス

「三島由紀夫」とはなにものだったのか−橋本治著−を少し前に読んだ、
文庫にして470頁余とこの長大な三島由紀夫論は、三島の殆どの作品を視野に入れて、堂々めぐりのごとく同心円上を螺旋様に展開して、作家三島由紀夫と私人・平岡公威の二重像を描ききろうとする、なかなか読み応えもあり面白かったが、読みくたびれもする書。
書中、「塔に幽閉された王子」のパラドックスとして繰りひろげる「豊饒の海」解釈はそのまま的確な三島由紀夫論ともなる本書の白眉ともいえる箇所だろう。


「塔に閉じこめられ、しかしその塔から「出たくない」と言い張っていた王子は、その最後、幽閉の苦しみに堪えかねて、自分を閉じこめる「塔」そのものを、投げ出そうとしている。「塔」から出るという簡単な答えを持てない王子は、その苦しみの根源となった「塔」そのものを投げつけようとするのである。
なぜそのように愚かな、矛盾して不可能な選択をするのか? それは「塔から出る」という簡単な選択肢の存在に気がつかないからである。「塔から出る」とは、他者のいる「恋」に向かって歩み出ることである。「私の人生を生きる」である。なぜそれができないのか? なぜその選択肢の存在に、彼は気がつけないのか?
それは、認識者である彼が、自分の「正しさ」に欲情してしまっているからである。自分の「正しさ」欲情してしまえば、そこから、「自分の恋の不可能」はたやすく確信できる。「恋」とは、認識者である自分のあり方を揺るがす「危機」だからである。彼は「恋の不可能」を確信し、その確信に従って、自分の認識の「正しさ」を過剰に求め、そして、彼の欲望構造は完結する。彼を閉じこめる「塔」とは、彼に快感をもたらす、彼自身の欲望構造=認識そのものなのだ。
肥大した認識は、彼の中から認識以外の一切を駆逐する。彼の中には、認識以外の歓びがない。「認識」を「病」として自覚することは、「認識以外の歓びが欲しい」ということである。しかし彼はそれを手に入れることができない。苦痛に堪えかねて「認識者」であることを捨てる――その時はまた、彼が一切を捨てる時なのだ。」


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋−73>
 秋はただ心より置く夕露を袖のほかとも思ひけるかな  越前

新古今集、秋上、千五百番歌合に。
邦雄曰く、詞書は錯記であって正治2年院二度百首。秋の悲しみに心から溢れるものこそ、夕べの露であるものを、袖の涙以外のものと思っていた。同趣数多の歌の中で「心より置く」「袖のほか」の、こまやかな修辞で他と分つところを示す。俊成女・宮内卿と並ぶ才媛で、千五百番歌合作者。作風は三者中最も質素で、細々とした調べを特徴としている、と。


 ふるさとは浅茅がすゑになりはてて月に残れる人の面影  藤原良経

邦雄曰く、詞書に「長恨歌の絵に、玄宗もとの所に帰りて、虫ども鳴き草も枯れわたりて、帝歎き給へるかたあるところを詠める」とある。虫の鳴く場面は原典にはないが、雰囲気の協調であろう。後世、平氏福原遷都の後の今様、「古き都を来てみれば浅茅が原とぞ荒れにける」もこの調べを伝えている。結句の「なく」は、虫の鳴き声、わが鳴き声である、と。


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