秋を世にわれのみしをる心とや‥‥

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−表象の森− フロイト=ラカン:「事後性」⇔「心的外傷」、「象徴界」⇔「偶然はない」、「構造主義」⇔「進化論」
     ――Memo:新宮一成立木康介編「フロイトラカン講談社より


「事後性」⇔「心的外傷」
・「事後性」−「シニフィアンの遡及作用」
ラカンは、シニフィアンシニフィエに対する優位を唱え、シニフィエシニフィアンへの効果へと還元した。
外傷とは何よりも、事後的に、つまり遡及的に、意味(シニフィエ)を与えられるシニフィアンである。


象徴界」⇔「偶然はない」
歴史は象徴界に属する。つまり、私たちの記憶はシニフィアンの法に支配されるということ。
フロイトは、「私は外的(現実的)な偶然は信じるが、内的(心理的)な偶然は信じない」といった。
内的・心理的事象はすべて無意識の動機による決定を受けているのであり、ラカンはこれを「象徴的決定」と呼ぶ。
「反覆される(符合しあう)偶然」−反覆、すなわちシニフィアンの回帰・符合は、象徴的決定の重要な発現形式の一つである。


構造主義」⇔「進化論」
・「自己言及」という構造的規定を引き受け大文字の他者からの問いかけにさらされることを肯定することが、構造主義の要点である。
人間の精神が、発話する主体の座であるとされるなら、どんな確定的な言辞も、欲望からくるある程度の「あやしさ」を有するだろう。
発話するための欲望はどこからくるのか、再び他者からである。。
「人間の欲望は他者の欲望」であって、精神とは一つの欲望の器という「物」なのだ。
私は私の生を歴史のように振り返り、私の生を未来との関係で了解している。私が振り返ることによって発生するこの歴史は、「事後的に」成り立つ歴史である。事後性の仕組みが私の生を無意識から支えているのである。
人間を脱中心化しているのは、生物進化の過程ではなく、シニフィアンたちの作用なのである。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋−76>
 いかにせむ真野の入江に潮みちて涙にしづむ篠の小薄  源顕仲

住吉社歌合、薄恋。
邦雄曰く、大治3(1128)年9月、時に神祇伯の顕仲主催による歌合。判者も顕仲。番は藤原顕輔で、「いつとなく忍ぶも苦し篠薄穂に出でて人に逢ふよしもがな」。判者は自作の「涙にしづむ」を「心もゆかねば」と謙遜しているが、誰の目にもこの第四句をこそ一首の命であろう。真野は普通は近江の歌枕だが、「潮みちて」とあるからには、摂津の真野と考えるか、と。


 秋を世にわれのみしをる心とや岩木にはらふ露の朝風  下冷泉政為

碧玉集、秋、初秋朝風
邦雄曰く、助詞の添え方ひとつ、形容詞の配置ひとつにも凡を嫌い、構成に腐心したあとが見られる。初句の「秋を世に」から結句の「露の朝風」まで、あたかも、六百番・千五百番歌合頃の定家・家隆の技法にさらに一捻りした感あり。たとえば「袖露」題の「おかぬ間もほさぬは秋の袖の上をなほいかにとか露かかるらむ」にしても同様、修辞の彩、眼を奪う、と。


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