草の葉に置き初めしより白露の‥‥

0511290301

−表象の森− フロイト=ラカン:「シニフィアン」⇔「エディプスコンプレクス」、「排除」⇔「棄却」
   ――Memo:新宮一成・立木康介編「フロイト=ラカン」講談社より


シニフィアン」⇔「エディプスコンプレクス」
エディプスコンプレクスとはシニフィアンの導入である。
主体へのシニフィアンの導入を源として、無意識という領域が作られていくということ。
主体が自足できず、言葉によって自己を示すことを強いられ/選ぶということ。
そこで、自己言及の構造が芽生え、言葉で自己を示すことが「不可能」になるという−絶対的な矛盾撞着を抱え込むこと。

「主の語らい」としての、宗教・政治や哲学の言質、あるいは近代における教育の言質、
これに対蹠的な位置関係にある「精神分析家の語らい」
「主の語らい」に囚われた主体を、いわば「鑑の向こう側」に誘引し、再びシニフィアンとの関係に立ち戻らせるものが「精神分析家の語らい」である。

「ファルスは他者の欲望のシニフィアン」として小さな人間によって創造され、この「シニフィアンの導入」をもって「他者の欲望」が主体に届く。
すなわち、主体が言葉で自己を示すことを強いられ/選び、その示しの「不可能」に直面し、そしてその不可能を、他者から「尊いもの」を与えられるという幻想に変え、その他者の欲望の証左をファルスに求めるという、子どもの世界の有為転変がここで完成する。


「排除」⇔「棄却」
歴史の始まりから、象徴的機能は父を掟の体現者と同一視している。
主体の存在に関する原初的な何かが象徴化されない、しかも抑圧されるのではなく棄却されるという事態が、「排除」である。
シニフィアンの排除によって引き起こされるのが精神病である。
シニフィアンが単独で存在することは決してなく、連鎖としてしか存在しないので、一つのシニフィアンの欠如によってシニフィアン全体が巻き込まれることになる。
シニフィアンの不在を代償しながら生活し、表面上は正常とみなされるような行動をとってきた主体にとって、ある日突然、代償を可能にしていた支えが機能不全に陥ってしまう、これが精神病の発病である。

・性的対象への接近は内在的ともいえる本質的な困難を示す。
エディプスコンプレクスの概念は、主体の性の探求にはじめから一つの「禁止」が刻印されているということを強調する。
主体は、自らの根源的な対象である母親への愛を禁じられてはじめて、人間的な性生活に与ることができる。
「性欲動」の構造には、人と人との完全な愛の成就を妨げる致命的な欠陥が見出される。
性欲動は本来的に、口や肛門や目といった身体器官をそれぞれの源泉とする「部分欲動」であるが、それらの部分はけっして一つの完全な「全体」へと統合されはしないからである。
ラカンが「性に向かう存在」と名づけた私たち人間は、常にこのような性の逆説を生きることを余儀なくされている。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋−81>
 草の葉に置き初めしより白露の袖のほかなる夕暮ぞなき  順徳院

後撰集、秋上、題知らず。
邦雄曰く、この一首、紫金和歌集には見えない。だが、建保3年6月の当座歌合「深夜恋」題に、「笹の葉や置きゐる露も夜頃経ぬみ山もさやに思ひみだれて」があり、この人麿写しの秀作は、順徳院18歳の作。「袖のほかなる夕暮ぞなき」の鮮やかな修辞も、多分若書きであろう。24歳で配流になる順徳院には「白露の袖」こそ青春の形見であった、と。


 初瀬山檜原の嵐うづもれて入相の鐘にかかる白雲  飛鳥井雅世

雅世卿集、永享九年六月、広田社百首続歌、暮山雲
邦雄曰く、白雲は峰を隠すのではない。檜原を覆うのでもない。「入相の鐘にかかる」としたところに、この作品の心にくい技法の冴えを見る。縹渺としてもの悲しい眺めが、秀れた水墨画さながらに浮かんでくる。「故郷露」題で、「露深み見しこともあらぬ庭草を払ふはいつの袖の秋風」とともに、飛鳥井家七世の裔として、さすがというべき持ち味が見られる。


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