時しもあれ悲しかりける思ひかな‥‥

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−世間虚仮− 子育ての母育て

幼な児といえども満5歳ともなれば、すでに第一反抗期を通過して、もはやそれなりの人格を有した人そのものだとつくづく再認させられる。ごっこ遊びなどをとおして役割認識も育っているし、場面の使い分けもできるようになる。男の子も女の子も性差を受けとめ各々の自意識を育てている。ふざけたり遊びに熱中したりしていると子どもそのものだが、ひょっと真顔になるとその表情からは、その子なりの内面に育つインテリジェンスのほどが覗きみえるような気がする。


昨日は幼な児の通う保育園の運動会。
もともと形質的な要因であろうと思われる未知の場面に対する不適応とこわばり、そしてそれが人見知りの強さともなる彼女も、その垣根を越え出ていくことをかなりできるようになった。朝の8時過ぎから夕刻の6時過ぎという長丁場の保育園通いに、近頃はともに遊びあえるお友だちもずいぶんと増えて、毎日が愉しくてしかたがないとみえ、「今日はお休みしてどこかへお出かけしようか」などと誘いかけても、「保育園がいい」と振り向いてもくれない。
そんな調子だから今年の運動会は、昨年までに比べればぐんと開放的になって、およそ積極的な参加姿勢が見られたのには、母親もちょっぴり満足げの様子で幼な児の動きを追っていた。とはいえ彼女自身得手不得手がはっきりしているからか、なかなか不得手なものには挑んでいこうとしないあたり、越えるべき壁はまだまだ多い。
そんなこんなが、勤務ゆえの限られたなかでの日々のスキンシップながら、わが子なれば母親にも手に取るようにわかるのだろう。母親もまた子どもの成長とともにその応接ぶりはずいぶんと変わってくるもので、細やかさとおおらかさのほどよいバランスが自然身についてきたものとみえ、叱る−叱らない、誉める−誉めない、干渉と不干渉、さまざまな場面でその使い分けも緻密さを帯びてくるし、気持ちの切り替えも柔軟に素早くなる。


嘗て、幼な児の誕生時、無事に出産を終えた直後の、母となった瞬間のだれもが垣間見せるあの安堵と開放感に満ちた無辜の表情は、大仰にいえば無私なる慈愛に通じているものだろうが、母としての子に接する振舞は、たえずその母なる初心−出産時の原記憶に戻りつ、内省され検証されて鍛えられ、変化してくるものなのだ。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋−88>
 うちなびく田の面の穂波ほのぼのと露吹き立てて渡る秋風  二条為定

新千載集、秋下、百首の歌奉りし時、秋田。
邦雄曰く、秋の田といえば、たとえば百人一首の中の数首のように、平明平凡な歌に終始しがちであったが、14世紀の技巧派は、目立たぬ工夫を凝らして、殊に第四句準秀句表現「露吹き立てて」は、こまやかな眼と心の動きを示す。人の意表を衝く文体にもまして苦心を要するところか。定家6代の末裔、二条家嫡流、歌会の領袖として敏腕を奮った、と。


 時しもあれ悲しかりける思ひかな秋の夕べに人は忘れじ  藤原家隆

六百番歌合、恋、夕恋。
邦雄曰く、一瞬失敗作かと錯覚するような不器用な三句切れ、無愛想な否定形の呟きめいた結句。にもかかわらず、惻々と胸に迫る悲しみが漲っている。左は良経の「君もまた夕べやわきてながむらむ忘れず払ふ萩の風かな」。右方人は「忘れず払ふ」を難じ、左方人は「夕べ」にととくに限る要なしと断ずる。俊成は左の結句を疑問視しながら結局は勝とした、と。


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