秋とだに吹きあへぬ風に色かはる‥‥

Ichibun9811270631

−世間虚仮− 月を道づれに

昨晩は風も強く荒れ模様の空ながら、それでも中天から西に傾きかけた月−十六夜の月か−がくっきりとその姿を見せてくれていた。
秋分の日あたりから夜の明けるのはどんどん遅くなり、午前3時過ぎから6時近くのほぼ3時間の配達行はいまや完全に昏い内のものとなってしまって、馴れきったコースをひたすらバイクを走らせるか、あるいは高層マンションの廊下や階段をただ黙然と徘徊?するだけの単調きわまりない独り行脚には、月さえ姿を見せぬ夜などなんとも寂しいかぎりだが、待宵、十五夜十六夜とつづいたこの三晩は、西へ西へと足早に傾きつつも煌々と照り映えた月が道づれともなって、もの侘しさを忘れさせてくれたものである。
殊に一昨晩の待宵月など、西の空に没しようとする5時過ぎには、仄かに淡く朱く染まり、夕陽の荘厳さとはどこまでも対照的な、朧々としてまことに妖しい姿を垣間見せていたが、どうにも形容しがたい妖しの月に奇妙なほど心はざわめきたったもので、一瞬吾を失ったか、思わず配達先をやり過ごしてしまい、不配による罰金などという前代の遺物じゃあるまいし、不当このうえない刑を喰らうところだったのだけれど、たとえ不覚を取って罰金の憂き目を見るとして、そぞろ月を道づれの配達行のほうがよほど心慰められうれしい勤行となるのだ。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋−89>
 秋とだに吹きあへぬ風に色かはる生田の森の露の下草  藤原定家

後撰集、秋上、名所の歌奉りける時。
邦雄曰く、承元元(1207)年、作者45歳の最勝四天王院障子歌の中の「生田の森」。彼の自信作を後鳥羽院は認めず新古今集には洩れ、後々に痼りを残すような中傷を敢えてする。だがまことに、見方によれば、院がこの歌を「森の下に少し枯れたる草のある他は気色も理りもなけれども、言ひ流したる詞続きのいみじきにてこそあれ」と御口伝に言うのもまた一理ある、と。


 逢はで来し夜はだに袖はつゆけきを別るる今朝の道の笹原  頓阿

草庵集、恋下、贈左大臣家にて、寄原恋。
邦雄曰く、下句の初めには「まして露けき」を省いている。逢えなかった夜の帰るさは勿論、後朝の別れの辛さに濡れる袖に、さらに降りそそぐ笹原の朝露。同趣同工同曲の類が八代集以後何回となく繰り返し歌われてきた。頓阿の作はそれをさらに技巧的にした一つの典型。二条家4世の為定を助けて新拾遺集の成立に力のあった歌僧として、殊に名を留める、と。


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