昔おもふ寝覚の空に過ぎきけむ‥‥


浄瑠璃寺境内−阿弥陀堂より東方三重塔を望む

−四方のたより− 2週間の忘備録的報告

 先月20日以来、実に2週間ぶりのUP。
2年前の9月から書き始めてより、ここまで空くことはなかったのだが‥‥。
その間いろいろあったのだけれど、ひとまずはメモ的に書き留めておきたい。

20日の「かんのんみち」upの直後、PCがまったく動かなくなった。
4月のトラブルの原因はHDだったが、今回はマザーボードで、どうやら致命的と見えた。
メーカーに送って交換ともなると2週間はかかるという。
寿命と諦めて、翌日PC本体を買いに日本橋へ走った。
購入したのは名も知らぬメーカーのオリジナル機、ASUS社のマザーボードP5VD2-MXtが搭載されたDualCoreもの。これに旧機から外した内蔵HDを組み込んで貰った。データが生きなきゃ意味がない。
とりあえず23日の小学校同窓会でのプリント分は間に合った。


その23日の小同窓会、出席は20名と些か淋しかったが、宵望都での本会、近くのメロディでの二次会と、正午からほぼ6時間近くにおよぶ再会の宴は、参加者それぞれによく堪能できたのではなかったか。さすがに三次会へと繰り出そうという姿は見かけなかった。
「聞き書、河野二久物語」の前フリも一応の効を上げたようである。遠く福島県からやって来たW君も、香川県から駆けつけたFさんも顔を火照らせるほどに打ち興じていた。もう何年も透析を続けているというK君も最後まで居つづけ、歌まで披露していたが、次が3年後として果たして再び見えることが叶うものかどうか、彼としても感無量の思いだったろう。


25日の土曜日、この春、埼玉からUターンしてきたN君宅の集いで、奈良と京都の県境近い南加茂へ。大和路快速で一時間は少々遠いし、片道950円也とJR料金の高さには畏れ入る。
宴の前に彼の案内で近くの岩船寺から浄瑠璃寺へとなだらかな丘陵地帯を路傍の石仏を訪ねながらミニハイキング。このあたりの紅葉は今が盛りと見えなかなか見事なものだった。
最大の収穫は、浄瑠璃寺の九体阿弥陀仏の右脇で薄暗い中にひっそりと鎮座していた不動明王三尊像。写真ではよく知られた矜羯羅(こんがら)童子と制多迦(せいたか)童子だが、直々の拝顔は初めてで、迂闊ながら此処でお目にかかれるとはつゆ知らなかったものだから、少しばかり興奮した。
夕刻からはN君夫婦とお招き組の7名で鍋を囲んで酒宴となるも、そうゆるりともならず、午後8時過ぎには退散。
11時前には帰宅したものの、前夜2時間ばかりの仮眠で、午前3時前から配達に出て、そのまま寝もやらずでは、2.3時間のゆったりハイキングとはいえ老体の身には堪えた。さらに次の日も1時間あまりの仮眠でまたも配達に出て、そのまま日曜の朝稽古に出かけたのだから、この日帰宅した夕刻には完全にダウン、脚も腰も痛い痛いと悲鳴を上げていた。
そんな次第で、次の2日間は日中もひたすら身体を休めるのに専念、ゴロリと身を横たえて惰眠を貪ることしきり。


疲労困憊の身体は回復してきたものの、パソコンの方はまだちゃんと復活していたわけではなかった。とりあえず動くものの、この際だからおのれの浅学非才を顧みず、先ずは旧機を解体して、もう一つのHDやマルチのDVDドライブ、それにMemoryやTVキャプチャーボードなど、まだ使える部品を取り外しては、新機に付加できるものは付け替え、できないものは別に保存。
おかげで新機は、内蔵HDが3つと外付HDが1つ、Memoryが1.5GBとずいぶん重装備?になった。
それから盲蛇に怖じずで、Partitionに挑戦、たいした知識もないから試行錯誤の繰り返しでこれが難産。
やっとPartitionをクリアしたかと思えば、今度は、Backupのシステム復元がどうにも効かない。結局は業を煮やして一からのインストールと相成ってしまったから、なにやかやと時間ばかり喰うこととなった。


12月3日の日曜日、今度は高校の同窓会。
同期のK君が昨年まで社長をしていたという草津エストピアホテルを利用して会食をし、さらには湖東三山の紅葉をもと、新機軸の日帰りバス旅行。
41名の参加申込みが、当日の朝になって4名のキャンセル。風邪でダウンというからには致し方もないが、決済は41人分でされるだろうし、今更会費の返金もできそうにないのは甚だ辛い。
朝、集合地の新大阪へは、責任者の私が一番遅くなった。平謝りに謝ることしきり。
バスは思ったよりスムーズに名神を走って、予定より30分ほど早くホテル着。後ろの行程がきついから会食の時間を早めた。
さすがコネクションの強さ、ホテルの料理は費用対効果を考えれば上々の内容で、みんな舌鼓に余念がない。
みんなほろ酔い機嫌で集合写真に収まり、百済寺へと向かうためバスに乗る。
紅葉は少しばかり盛りを過ぎた頃だったか。小一時間の散策のあと、またもバス移動で湖岸の鮎屋の里へと立ち寄り、新大阪帰着が午後7時はほぼ予定通り。
久しぶりの再会が一日をかけてたっぷりと時間を過ごすのは佳いものだ。行程のリズム変化が心象風景に陰影を刻み、しみじみとした潤いをもたらしてくれる。


明けて4日、相方の勤務が休みなので、村上徹君の木工芸展を観ようと京都へ向かったのだが、京都南インター近くまで走ったところで、今日は休館であることに気づく間抜けぶり。どうも近頃はこういうことが度重なる。
そのまま帰るのも虚しいから京都東まで車を走らせ、一遍時宗歓喜光寺と、秀吉ゆかりの「醍醐の花見」こと醍醐寺を訪ねた。
真言密教の寺として当山派修験の大本山というだけあって、真如三昧耶堂とかの小さなお堂では、4人の修行僧が護摩焚きをしていた。
西国33観音11番札所のある山上の上醍醐に登坂するには、時間もないし、おまけに体力も気力もないからご免被って帰路へ。

体調はほぼ戻っているが、一時の無理は、あからさまに調子を崩す元凶となる。私の体力や気力では現在の日々のリズムはどうにかこうにかギリギリ維持できるペースなのだろう。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋−97>
 憂き人の心の秋の袂より月と露とは恨みはててき  足利義尚

常徳院詠 文明十九年五月、諏訪社法楽とて、恋。
邦雄曰く、義尚は幼少14歳で人に先んじて歌会を主催する早熟の天才であった。長享3(1489)年3月、近江の戦いに陣没。「心の秋の袂」とは、言葉に余る心を凝縮表現しようとする配慮であった。第四句の「月と露とは」もまた、簡潔で濃厚な味わいを持つ。秀抜な技巧だが、韻律は、溢れる思いに急かれて流露感を阻み、いささか苦しい調べではある、と。


昔おもふ寝覚の空に過ぎきけむ行くへも知らぬ月の光の  藤原定家

拾遺愚草、上、二見浦百首、雑。
邦雄曰く、西行勧進の百首歌、「秋」に「花も紅葉も」を含む24歳の力作群の中の雑歌の一首、これも明らかに秋歌だ。屈折した倒置法で、「月の光の」を結句に置いた技法は、この後も類を見ぬ独特のもの。この歌に続く「山家」題も、「山深き竹の網戸に風冴えて幾夜絶えぬる夢路なるらむ」と、深い情趣をたたえ、稀なる天才の首途を
十分に証する、と。


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