志賀の浦梢にかよふ松風は‥‥

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−世間虚仮− 成長のリズム

子どもの成長のリズムというものは個体差のはげしいものではある。
幼児から子ども(児童)へ、10月で満5歳となったわが家の幼な児のこの頃は、その過渡期の真っ只中にあるらしい。そこでは親と子の交わりようもどんどんその姿を変えてくるものだ。

昨日は、正月早々体調を崩したらしい連れ合いに代わって、幼な児のお相手となった。
さてどうしたものかと思案の末、天満の天神さんへと出かけてみた。
「外の見える電車に乗りたい」という幼な児の望みに応えて、環状線で弁天町から天満へと、わざわざ天王寺経由で遠廻りしたら、さすがに堪能した様子。
初詣に天満宮へは何度かあるはずだが、南北2.6キロ、日本一という天神橋筋商店街を長々と歩いて参詣するのは、大阪人のくせに恥ずかしながらこの年になって初体験。
人が溢れ、にぎわう雑踏、食事処やパチンコやゲームセンターなど店々も満員盛況のありさまで、なにやら昔懐かしい光景をみるような想いにとらわれる。
昨秋オープン以来、満員御礼がつづくという天満天神繁盛亭もとても寄席小屋とは思えぬ偉容で、正月気分の晴れやかさに花を添えている。
満5歳の幼な児と二人、手をつないでの道行きは4時間ほどに及んだが、彼女にとってもなかなか味わえぬ世界、記憶の隅に刻み込まれる経験ではあったろう。


一夜明けて、連れ合いも幾分か体調を戻したとみえ、今度は三人揃っての住吉さん参りと相成る。
例によって、二人で引いたお神籤はともに中吉、有り難くもないが障りもなし。
歌は小侍従の
「住吉とあとたれそめしそのかみに月やかはらぬ今宵なるらむ」
帰路、母と子は、近所の商店街に立ち寄り、カイトを買って、いつも遊ぶ公園の横のグランドで、凧揚げに興じていた。糸元を握って懸命に走る幼な児は、すぐに旋回するように走るから、凧糸は緩んでしまってせっかく揚がりかけた凧も揚がりきらないまま墜ちてしまう。何度やっても同じ失敗を繰り返していたようだったが、まだ無理もない年ごろか。


この凧揚げひとつ、独りでできるようになる頃は、もう完全に幼児卒業ということになろうが、幼児から子ども(児童)の世界への成長変化は、幼児段階では個別不均等に発達していた運動能力や知的能力、感情の豊かさなどのそれぞれの要素が、それなりに統合されてくること、予見とコントロールを有するようになることなのだろう。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬−36>
 乱れつつ絶えなば悲し冬の夜のわがひとり寝る玉の緒弱み  曽根好忠

好忠集、毎月集、冬、十月下。
邦雄曰く、思い乱れて、そのまま絶え入ってしまうなら無念なことだと、冬夜の独り寝の、忍辱の苦しさを吐露する。連用形であたかも絶句したように一首が終わるのも、手の込んだ技法のうちであろう。「寒からで寝ざめずしあらば冬の夜のわが待つ人は来ずはそをなど」が一首前に置かれる。来てくれない、それをどうして咎めようかと、女人転身の詠唱、と。


 志賀の浦梢にかよふ松風は氷に残るさざなみの声  藤原良経

秋篠月清集、一、二夜百首、氷五首。
邦雄曰く、寒中の松風を凍るさざなみの声と隠喩で、きっぱりと表現したこの技法、まさに詩魂の生む調べであろう。「松風は」と、ためらいもなく指し示す上句も、良経の潔さであった。この歌、作者21歳12月中旬の秀作。速詠にもかかわらず、律呂乱れず秀作に富む。「大井川瀬々の岩波音絶えて井堰の水に風凍るなり」も氷の題の中の出色の作、と。


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