音はしていざよふ波も霞みけり‥‥

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−世間虚仮− 選挙顛末記

3月17日以来だから、ほぼ1ヶ月ぶりの言挙げである。
確定申告やら次兄の会社の決算を始末したのが先月の20日で、それ以後は、大阪市会の選挙戦に明け暮れた。
今もなおその後始末、このところ国会議員たちで物議をかもしたあの悪評高い「収支報告書」の提出が残されている。選挙には、候補者一人一人にその選挙運動に関わる一切の「収支報告」が課されているのだ。
4年前の市議選をとどめと、選挙に関わることなどもうあるまいと踏んでいたのだが、どっこいそうは問屋は卸してくれなかった。
西区から立った新人候補谷口豊子は、還暦の満60才、団塊世代の走りだが、その夫君が中学の同期生であり、彼女もまた知己の人でもあった。長らく市岡日本語教室を支えてきたボランティアスタッフの一人でもあった彼女は、3年前の竣工成った市岡同窓会館での「山頭火」上演を観てくれてもいた。
その彼女が市議選に打って出ることになるらしいと、私の舞台スタッフでもある選挙仲間?のY君から耳打ちがあったのは2月末だったか、すでに3月に入っていたか。
夫君ならともかく彼女なら候補者として悪くはあるまい、との感想は述べたものの、それきりのことで、いずれ相談があるだろうと言われても、なお私自身がどうこう関わる事案かどうか、実感はあまり湧かなかった。
夫君の靖弘は、30代の頃に、二度ばかり、市議選と府議選に出ている。当時の私はすでに生まれ育った西区を離れてもいたし、選挙戦などといういかにも生臭き俗事には縁なき衆生であったから、遠くで眺める一観客でしかなかったが、彼の選挙ぶりはただの物好きとしか見えぬ、泡沫候補の自己満足に終始する、選挙を彩る刺身のツマほどの動きぶりであったかと記憶する。
今度の夫人の出馬も、その体で想像しているなら、お呼びでない、勝手たるべしと思っていたら、その靖弘君から突然の電話があり、立候補の届出書類などを作成中なのだが、諸々教えてくれませんかと曰う。
中学時代の印象そのままに、相変わらず調子いいだけの野郎だと思いながら、少々気鬱な面持ちで出かけてみた。
候補者となるはずの夫人は、誰かに逢うとて不在だった。彼は机上に書類などひろげていたが、特に何をしている風でもなかったし、わざわざ呼びつけた私に何をして欲しいのかも判然とできないほどに、狼狽えているばかりとしか映らなかった。
彼は私を知らないで呼んでいる。信頼すべき他人が私に頼みなさいと薦めるから呼んでいるだけで、私が何者で、何ができて、何ができないか、その想像も覚束ないままに、私を呼びつけ、対座している。
だが、そんなことはどうでもよかった。彼自身、私がかねてより思い描いていたとおりの似姿だったというにすぎないことで、候補者は彼ではなく、今回は夫人なのだから、その選挙を、従来の彼流でやるのか、そうではないのか、そこだけが私の関心事であった。
やがて夫人が戻ってきて、三者で座す。すでにポスターや公報など印刷関係は、Yの父親、これは選挙の広報やコピープランのベテランの専門業者ともいえる人物だが、それに依頼しているという。
加えて、私とは因縁浅からぬ内海辰郷君の名が飛び出した。箕面の市議を5期務め、3年前の市長選に打って出たものの、惜しくも敗れ去り、捲土重来を期して在野にある彼は、九条の下町出身であり、中学の2期下、高校も市岡17期、育った実家はそのままに、なお健在の母親と妹が暮らしている。
その彼に、選挙期間中の専属応援を依頼しているという。夫君靖弘が主宰する九条下町ツアーなるボランティア活動のイベントに、嘗て参加した誼みも手伝ってのことらしい。
内海君が直接に関わるとなれば、これは放っとけぬ、と覚悟した。
わかった、提案。主要な関係者、内海君とYの親子と連絡を取って、集まって貰ってくれ。君たち夫婦と、私を含む四者、それで充分、スタッフ会議をしよう。そこでどんな陣営が組めて、どんな基本戦略が描けるか、ほぼハッキリする、と。
2日後の夜、その6人が打ち揃った。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春−64>
 舟つなぐ影も緑になりにけり六田の淀の玉の小柳  土御門院

風雅集、春中、名所柳を。
六田(むつだ)の淀−大和国の歌枕。奈良県吉野町六田、大淀町北六田付近。淀は本来、流れる水の滞る所の意。
邦雄曰く、父帝後鳥羽院の歌才は異腹の弟順徳院に、より勝って継がれたかに考えられているが、土御門院の作も清新の趣なかなか捨てがたい。吉野六田の渡し「影も緑に」など、秀作揃いの風雅集の春歌中でも、はっとするほど見事な出来映えだ。勅撰入集も計157首で順徳院を凌駕する。承久の乱には関わらなかったが、むしろ進んで流謫の身となった、と。


 音はしていざよふ波も霞みけり八十うぢ川の春のあけぼの  後宇多院

後撰集、春上、河霞といふことをよませ給うける。
文永4(1267)年−元亨4(1324)年、亀山天皇の皇子で、邦治親王(後二条天皇)や尊治親王(後醍醐天皇)の父。徳治2(1307)年、后遊義門院が崩じたのを機に仁和寺で出家、法名金剛性を称し、密教の研究に没頭した。文保2(1318)年、尊治親王践祚に、以後3年ほど院政を行うも、元亨元(1321)年、院政の停止を幕府に申し出、後醍醐天皇の親政に委ねた。
邦雄曰く、在世中に新後撰と続千載の二勅撰集を二条為世に選進させた院の御製は、この春曙が最初に現れる。人麿の「もののふの八十氏河の網代木にいさよふ波の行く方知らずも」を霞ませて駘蕩たる春の歌に一変させた。霧の中から岩を打ち、岸を洗う波音が響いてくるのが心憎い。亀山天皇第二皇子、勅撰入集147首、鎌倉末期の傑れた歌人、と。


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