われはもや安見児得たり‥‥

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−世間虚仮− あれやこれや

一昨日(24日)は文楽の7月公演へ。第2部は午後2時開演の昼の部、演目は「鎌倉三代記」の入墨の段と絹川村の段、それに狂言から採られた「釣女」。春の公演同様、今回もまた戴きもののチケット。
「鎌倉三代記」の原作は近松半二。一見、荒唐無稽かと思われる筋立ては、大坂冬の陣や夏の陣における徳川家康の豊臣家攻略に材を採りながら、これを鎌倉時代源頼家北条時政の確執に置き換えた虚構としているから、史実に照らしつつ観たりすると訳の判らぬこと夥しい。
作者の近松半二は、家康を時政に、真田幸村佐々木高綱に、木村重成を三浦之助に、千姫を時姫に擬えての劇作だとあらかじめ聴きおけば、この荒唐無稽さもあらかたの納得はいく。
絹川村の段でトリを務めた九世竹本綱太夫の語り芸は、声に伸びは欠くものの変化に富み振幅の大きさは余人を許さず、いかにも庶民的な芸風だが好感の熱演。7月20日付の記事によれば、狂言野村万作らとともに人間国宝にと文化審議会によって答申されたばかりというのもさもありなむの75歳。
「釣女」で大名の役を語った竹本文字久太夫の朗々とした声の伸び、加えて狂言の語り芸をよく研究したその調子はなかなかのものであった。昭和30年生れというからこの世界ではまだまだ中堅どころになるが、義太夫の次代を担う中軸と見えた。


昨夜は天神祭の鮒渡御で大川や中之島界隈は大変な賑わいだったろうが、此方は夕刻のひととき近所の加賀屋天満宮に幼な児を自転車に乗せて繰り出してみた。
この10年、近所にいながら初参りの天神さんは、瀟洒な本殿と左側に社務所、右横にはお稲荷さんと、奥行きもなくこじんまりしたもの。
狭い境内とて並ぶ屋台も20ほどか、まだ陽の明るい6時台は溢れるほどの人出もない。小一時間ほどの間に幼な児はかき氷を食し、三つほどのゲームに興じて、ひとときの夏の風物詩もこれにて落着、母親もそろそろ帰ってくる頃だと言い聞かせ、さっさと退散した。


その幼な児は、やはり2泊3日のお泊まり保育体験からこっち急に大人びた感がある。海辺の民宿で過ごした集団行動は、1泊だけならその限りの経験に終わっても、2日目となるとさまざまな行動が規律ともなって刷り込まれ強化される。
実際、付き添った保母さんから聞いたところによれば、1日目は行動プログラムのなにからなにまで受け身であった子どもらが、2日目にはだれかれとなく率先垂範、先取りしてどんどん動いていたという。
保育園への送り迎えの日々にそれとなく把握できることだが、彼女の属するいわゆる年長さんのクラスでは、ごく大雑把に見て、どうやら二つのグループに分かれているような節がある。彼女は10月生まれだが、4月や5月生まれの早い生れの子らとは、別のグループ形成をしているように見えるのだ。一律に当て嵌めることはもちろん危険だが、前期(4-9月)生まれと後期(10-3月)生れで大別できようか。
個人の成長リズムがそれぞれ固有でばらばらであるのも事実だが、やはり4月生まれと3月生まれのほぼ1年の差は、この時期ではまだまだ大きな差違となって表れる。その落差のちょうど中ほどに位置して、身長などは比較的早く伸びている彼女は無意識にではあろうが、後期派(?)の一群を自分のエリア、近しい仲間たちと受けとめているようなのだ。
お泊まり保育では、そういうことをより強め、いまなにをするべきか、大仰に謂えば集団のなかの規範性に目覚め、行動へと促す内面的な衝迫力がかなりの程度、それも一気に醸成されたものとみえる。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋−78>
 われはもや安見児得たりみな人の得難にすとふ安見児得たり  藤原鎌足

万葉集、巻二、相聞、采女安見児を捲き娶きし時作る歌一首。
邦雄曰く、歔欷と慟哭で蒼灰色に塗られた王朝恋歌の中に、万葉の相聞は、せめて三十首に二首、百首に七首、初々しい恋の睦言、歓喜の吐息が聞けるのを救いとするが、この鎌足の作ほど直線的に、天真爛漫に、得恋の喜悦を表明している歌も稀だろう。第二句・結句、共に「たり」で切れ、終始潔く力強い抑揚の颯爽たる響き、思わず拍手が贈りたくなる、と。


 かぎりなき思ひのままに夜も来む夢路をさへに人はとがめじ  小野小町

古今集、恋三、題知らず。
邦雄曰く、人目はうるさくて、忍びつつ通ってくる愛人をとやかく口の端に上せて非難する。夢、その恋の通い路を頼もう。この路を通って来てくれるのまで、他人が咎め、邪魔だてすることもあるまい。「かぎりなき思ひ」が、万感を込めて人に迫ってくる。「うつつにはさもこそあらめ夢にさへ人目も守ると見るがわびしき」もまた忍恋の切なさを歌う、と。


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