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−表象の森− 青木繁「海の幸」

ここ3週間ばかりか、一枚の絵に、といってもナマのではなく画集の中の一枚にすぎないのだが、新しきOriginの底深い根の部分をめぐって、ともかくも心囚われて逍遙することしきりであった。
維新から文明開化を経て日清・日露の国威発揚とともに欧米近代化も一応成りつつあったかとみえる明治も終りを告げる44(1911)年の早春、3年間の九州放浪の末、28歳の若さで夭折した青木繁が遺した「海の幸」である。
悲劇の天才画家青木繁の名も、彼22歳の明治37(1904)年にものした畢生の作「海の幸」も、昭和23(1948)年の河北綸明の労作「青木繁−生涯と芸術」による再発見以来、日本の近代西洋画草創期にひときわ異彩を放った画業はつとに再評価され、美術全集などに定着してきたのだから、これまでもなにかの機会に眼にしたことはない筈はないのだが‥‥。

彼の遺した画業でいえば、「黄泉比良坂」の幻想性や、世紀末を漂わせる画風の「狂女」も好いが、「海の幸」は構図といい筆致といい群を抜いて好い。当時の画壇を先導した黒田清輝などの画を脇に置いてみれば、その斬新からくる衝撃は計り知れないものがあるだろう。白馬会第9回展において、裸体画ゆえに特別室に展示されたというこの作品に、画壇の人々は感嘆の声を挙げつつ賛否両論沸騰したという。
この絵を見て衝き動かされた若き詩人蒲原有明は「海の幸」と題するオマージュを捧げているが、有明はこの詩を生涯にわたり三度も改作するという執心ぶりを示しているのも愉しい。
「海の幸」青木繁画  ――蒲原有明
 ただ見る、青とはた金の深き調和。−
 きほへる力はここに潮と湧き、
 不壊なるものの跫音(あのと)は天に伝へ、
 互(かたみ)に調べあやなし、響き交はす。  −後略−


早熟の文学少年でもあったされる青木繁の全遺稿集とされる「仮象の創造」を併せて読んだが、感じること思うことろさまざまに浮かんでは、茫々漠々、いまのところ纏まりそうもないので、遺された短歌群からいくつか列挙しておくにとどめる。
 宵春を沼の女神のいでたたし ひめごと宣るか蘆の葉の風
 黒髪をおどろに揺りて悶ゆる子 世の初恋を呪はしと泣く
 ねくたれやもろ手を挙げて掻いつづける 肩にうねりの蛇に似る髪
 晶(あか)き日を緑の波に子を抱きて 人魚(ドゲル)の母の沖に泣く声
 庭下駄に飛石忍ぶ手燭(てもとし)の 手を執りあへば散る桜かな
 故なくて唯さめざめと泣きし夜半 知りぬ我まだ我に背かぬ
 幾たびか噫いくたびかめぐりこし 如何に呪ひの恐ろしき渦
 蒲公英の野や手をつらね裳をあげて 謳ふや舞ふや世しらぬ乙女
 父となり三年われからさすらひぬ 家まだ成さぬ秋二十八
 わが国は筑紫の国や白日別 母います国櫨(はぜ)多き国

※現在「海の幸」は久留米市石橋財団石橋美術館に所蔵されている。
http://www.ishibashi-museum.gr.jp/collections/a.html


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑−38>
 見るままに天霧る星ぞ浮き沈むあかつきやみの群雲の空  西園寺実兼

風雅集、雑中、文保三(1319)年、百首の歌の中に。
建長元(1249)年−元亨2(1322)年、太政大臣西園寺公相の三男、永福門院らの父。京極派の歌人として活躍し、また琵琶の名手でもあり、後深草院二条の「とはずがたり」では「雪の曙」の名で登場する主人公の恋人。続拾遺集初出、勅撰入集は209首。
邦雄曰く、後西園寺入道前太政大臣名で見える作者は、承久の乱後栄えた、定家夫人の弟西園寺公経の曾孫にあたる。玉葉60首入選のなかなかの技巧派で、「星ぞ浮き沈む」あたりの抑揚と明暗は人を魅するものあり。冬の部に見える「行きなやむ谷の氷の下むせび末にみなぎる水ぞ少なき」も、ややねんごろに過ぎるほど重い調べが心に残る。没73歳、と。


 暁のゆふつけ鳥ぞあはれなる長き眠りをおもふ枕に  式子内親王

新古今集、雑下、百首歌に。
邦雄曰く、院初度百首の「鳥」五首。夜明けの鶏鳴を聞きながら無明長夜の眠り、すなわち現世の生を歎いている。「あはれなる」はむしろわが身の上であり、釈教的な深みは作者の独壇場。式子は翌年正月永眠した。「はかなしや風に漂ふ波の上に鳰の浮巣のさても世に経る」も同じ「鳥」の中の秀歌で、新千載・雑上に入選、初句と結句との照応が微妙、と。


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