花もみぢ見し春秋の夢ならで‥‥

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−表象の森− ふたたび「海の幸」

「雲ポッツリ、又ポッツリ、ポッツリ!
 波ピッチャリ、又ピッチャリ、ピッチャリ!
 砂ヂリヂリとやけて
 風ムシムシとあつく
 なぎたる空!
 はやりたる潮!」


明治37(1904)年7月、東京美術学校を卒業した青木繁は、同郷の詩人高島泉郷の布良礼賛の言葉に誘われ、房州布良海岸へと写生旅行に出かけた。
同行3人、故郷久留米時代からの同僚坂本繁二郎と、画塾不同舎以来の友人森田恒友、それに不同舎の後輩で当時青木を慕っていたらしい福田たね。滞在はほぼ2ヶ月。
冒頭に引いたのは、布良滞在中、「僕は海水浴で黒んぼーだよ」との書き出しで同郷の友に宛てた手紙の中の一節だ。松永伍一の謂いを借りれば「生命の発条の凄まじさ」ともいうべき若者特有の本然たる躍動があるが、その背景にはこの滞在において進行したと見られる福田たねとの恋の焔も関わっているのだろう。
前年の「黄泉比良坂」などの出展で第1回白馬会賞を射止め、その俊才を高く評価された青木にとってこの写生旅行は、さらなる大きな飛躍を期したものでもあった。
同じ手紙の中で「今は少々製作中だ、大きい、モデルを沢山つかって居る、いづれ東京に帰ってから御覧に入れる迄は黙して居よう。」と記した作品が、その年の白馬会展に出品され、当時の画壇を圧倒した「海の幸」だが、同行の坂本繁二郎によれば、この絵は眼前嘱目の光景を写したものではなく、青木自身は海辺で老若男女入り乱れて活況を呈する大漁風景を見てはいないのだという。
大漁の、夥しいほどの魚が浜に揚げられ、人々が鉈をふるい処分し振り分けられていく光景は、あたり一面血の海と化しまるで修羅場のごときさまを呈す。さらには血の滴るそれらの獲物を猟師たちやその家族が、三々五々背にかついで帰っていく。興奮さめやらぬ坂本らからこの様子を聞かされた青木の心中に、彼自身拘りつづけてきた神話的モティーフと、現し身の海人たちが繰りひろげたこの光景が交錯して想像の翼をひろげたようである。
翌朝よりほぼ1週間、彼はあたり構わず製作に没頭し「海の幸」は成った。
縦70?×横180?という横長の画面に、老若10人の海の男たちが獲物を担いで左から右へと隊列となって横向きに歩いているその中に一人、絵を見ている此方側すなわち観者に対して控え目にしつつも遠く挑むように此方を見ている者を配するという、この意表を衝いた着想が画面全体を引き締め統括しかつ格別の惹起力をもたせているのだが、そのモデルとなった顔が男性であるはずにもかかわらずどう見ても福田たねその人としか見えないのが、これまた後代の論議の種ともなったようである。実際その顔は同じ頃に描いた福田たねの肖像画とそっくりなのだから、彼はこの渾身の野心作に満々たる情熱と自負を抱きながら、いま現に身近にある恋人の顔をそこへ描き込んだのだろう。


その年の秋、白馬会展に出展されたこの作品は、他を圧して一大センセーションを巻き起こした。
当時すでに親交のあった蒲原有明は、
「わたくしは実際に青木君の『海の幸』を眼で見たのではなく、隅から隅まで嗅ぎ回ったのである。わたくしの憐れむべき眼は余りに近くこの驚くべき現象に出会って、既に最初の一瞥から度を失っていた。そして嗅ぎ回ると同時に耳に響く底力のある音楽を聴いた。強烈な匂いが襲いかかる画であると共に、金の光の匂いと紺青の潮の匂いとが高い調子で悠久な争闘と諧和を保って、自然の荘厳を具現しているその奥から、意地の悪い秘密の香煙を漂はし、それにまつはる赤褐色な逞しい人間の素膚が、自然に対する苦闘と凱旋の悦楽とを暗示しているのである。一度眩んだわたくしの眼が、漁夫の銛で重く荷れている大鮫の油ぎった鰭から胴にかけて反射する青白い凄惨な光を、おづおづ倫(ぬす)み見ているひまに、わたくしの体はいつかその自然の眷属の行列の中に吸ひ込まれていたのである。」と評した。
時あたかも、明治37(1904)年の秋といえば、この年の春に召集され旅順攻囲戦に加わっていた弟の身を案じた与謝野晶子絶唱した「君死に給ふこと勿れ」が「明星」に発表され、これまた大きな話題となった頃と偶々まったく重なっているのだが、ふたたび松永伍一の言を借りれば、青木繁の「海の幸」は、この晶子の話題作と「肩を並べていい芸術上の収穫として騒がれていった」というように、日本の近代絵画史上に燦然と君臨し、いわば伝説と化していくのだ。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑−40>
 むばたまのわが黒髪やかはるらむ鏡の影にふれる白雪  紀貫之

古今集、物名、かみやがは。
邦雄曰く、鏡に映る雪と見たのは、自らの白髪であったという老いの歎き、類歌は無数にあるが、これは京の北野の「紙屋川」を第二・三句にひそかに嵌め込んだ言語遊戯。遊びにも見えぬ優れた述懐歌と化したのは貫之たる所以。「今幾日春しなければうぐひすもものはながめて思ふべらなり」は「すもものはな」を象嵌した。勅撰集には不可欠の部立、と。


 花もみぢ見し春秋の夢ならで憂きこと忍ぶ思ひ出ぞなき  後崇光院

沙玉和歌集、堀河院百首題にて、雑、懐旧。
邦雄曰く、新続古今集歌人中でも、後崇光院貞成親王は際だった存在であり、その生涯は波乱に富んでいる。春・秋の思い出のみが、鬱屈に耐える唯一の慰めであったという述懐が、さこそと察せられる。称光天皇の逆鱗に触れて薙髪したことは勿論、75歳で余映のように院号を得たのも、憂悶に鎖された人生の、殊に「憂きこと」であったろうか、と。


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