きりぎりす夜寒に秋のなるままに‥‥

Yakimochiya

−世間虚仮− 古民家の宿

お盆も過ぎたというのに炎熱地獄の続く都会を逃れ、3日間という束の間ながら涼を求めて信州に遊んできた。
宿泊先は信州でもめずらしく観光資源らしきものはまったくないような山村の中条村。人口は一昨年の国勢調査時点で2593人。平成の大合併で長野県でもいくつもの村が消えていったが、どうやらこの村の場合、周辺二村との合併協議も不調に終わったらしい。
観光資源がないのだから民宿とて一軒もなく、古民家を移築したという公共の宿が一軒あるのみ。ネットで見つけたその古民家の佇まいに食指が動いて、連泊の予約をして出かけたという次第。
その名も信州名物「おやき」から採られたらしい「やきもち家」は、近在の古民家を移築したという中央の萱葺の母屋は間口12間となかなかの威容で、向かって右側には温泉の湧く浴場家屋と客室4室の新館を配し、左側には集会など団体用とみられる大広間を配している。
我々が宿泊した二日目には、千葉から山村体験にやって来たという小学生の団体がこの大広間に泊まって、蝉の鳴き声ばかりの静かな山あいに子どもたちのにぎやかな声を響かせていた。
客室は母屋の3室と合わせて計7室で、定員は最大38名というから、建物全体の規模に照らせば贅沢なほどにゆったりとしている。我々の泊まったのは母屋の一室だが、これがなんと15畳もあり、おまけに平家造りで剥き出しの天井の梁そのままに高いこと、ひろびろとして居心地はほぼ満点をつけてもよいくらい。
費用対効果でいえばかくのごとく文句なしの環境であり施設内容だが、なにより人のぬくもりが肝要のもてなし、客への応接ぶりに未熟さがあったのは惜しまれる。
地域振興施設として国の補助金制度を利用して整備された道の駅「中条」と同様に、村の事業として生まれたこの宿は、昨今の公共施設全般と同じく、その運営を指定管理者制度で民間に委託しているのである。それが100%民間委託ならばまだしもだろうが、どうやら外郭団体のごときものとなっているとみえて、もてなしの主役たる宿の主人も女将も誰が誰やらはっきりしないどころか、人が日毎に代わってしまっては、客の此方としてもとりつくしまもない。これでは贅を尽くした萱葺の古民家風の宿も形無し、仏作って魂入れずでなんとも心許ないばかり。
金に糸目をつけず成った折角の村興しの一策も、どこにでもある箱物行政と同様の歪みを曝け出していては、造りはどこまでも見事なこのお宿、はていつまで健在でいることやらと、悲しい心配ばかりが先立つのだ。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋−100>
 草若み結びし萩は穂にも出でず西なる人や秋をまづ知る  清原元輔

元輔集。
邦雄曰く、詞書には「西の京に住み侍りし人のとはぬ心ばへの歌よみて侍りし返事に」とある。恋の趣き、殊に心変わりをひそかに恨む趣きも見えながら、爽やかな味が捨てがたい。即吟を得意とした元輔ならではの作。人の住む「西の京」は右京のこと、現在も桂・嵐山・嵯峨は右京区の中にある。西は秋、東は春、秋は「飽き」心において読むべきであろう。


 きりぎりす夜寒に秋のなるままに弱るか声の遠ざかりゆく  西行

新古今集、秋下、題知らず。
邦雄曰く、文治3(1187)年、作者69歳の御裳濯(みもすそ)河歌合中の二十一番に見える。「松に延ふまきのはかづら散りにけり外山の秋は風荒むらむ」との番、俊成は左右適当に褒めて持とし、新古今集には二首とも入選しているが、西行の個性横溢、素朴な味比類のない「きりぎりす」こそ記念さるべきだろう。第四・五句の句跨りが、また一入悲しみをそそる、と。


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