声高しすこし立ちのけきりぎりす‥‥

070821230041

−世間虚仮− 信州子連れ旅

子どもが5.6歳ともなってくると、気ままな旅もどうしても子どもを軸に動かざるをえない。
それほど重症ではないのだが、日々、アトピー性皮膚炎と闘う幼な児には、なによりも空気清澄にして涼風爽やかなのがよかったとみえて、先週の21日から23日、信州滞在の三日の間はほとんど痒がりもせず、まずは結構な環境であった。
初日は行きがけに、観光の定番コースだが、安曇野の大王わさび農場に立ち寄った。以前に一度来たことがあったが、一面のわさび畑の緑と豊かな水の流れが快い記憶として残っていたからだ。昼下がりの夏の陽射しはきつかったが、木蔭は涼しく、せせらぎの水の流れに脚を浸すと痺れるほどに冷たく心地よかった。足湯ならぬ足水というわけだが、七月生まれの私などには寒冷によほど弱いとみえて、冷やりとした一瞬の快感もすぐに突き刺すような痛覚となって襲ってくるから、さっさと引き揚げて一度きりで止めてしまったが、母と子にはその痺れるほどの冷たさがよほど快感なのか、なんども浸しては揚げるの足水を繰り返していた。
先の稿でも書いたが、古民家の宿やきもち家は、その造りといい居住性といい、決して予想を裏切るものではなかった。こういう空間でゆったりと寛げるのはある種至福の時といってもよかろう。
東京から来たのだろう、まだ2歳半という男の児連れの若い夫婦が、われわれと同じく二泊していたが、はっきりしない片言しか喋れぬこの子が、環境の違いだろうがよほど躁状態になっているとみえて、うちの娘がちょっと手勝手やると「キャッ、キャッ」と奇声をあげてはうるさいほどに「オネェチャン、オネェチャン」と覚束ない足取りで追いかけ回していた。おかげで夕食の一刻が賑やかこのうえないものとなって、うちの幼な児にも愉しい時間だったろう。
二日目は戸隠高原へと足を伸ばした。クルマで一時間余り、中条から小川村へそして鬼無里へと、山越えの峠を二つばかり走ったか。嘗ての鬼無里村戸隠村平成の大合併で今は長野市編入されている。
忍者の里でも聞こえた戸隠は、木曾義仲に仕えて功のあった仁科大介に由来するというから古い。昔から修業の山として天台・真言両派の修験道が栄えた戸隠であれば、忍者たちが派生してくるのも肯ける。
幼い子連れ家族のお目当ては「戸隠チビッ子忍者村」だ。要するにアスレチックの道具立てを忍者の里風にアレンジした子ども向け遊びの空間。これがまだ男の子も女の子も区別なく遊び興じる年頃の幼い子どもたちにとってはすこぶるご機嫌の遊び空間となる。ご丁寧にもわが幼な児も400円也で赤い忍者服に着替えて、修業の旅へとフルコースを堪能すること二時間余り、少々怖がりの気がある娘ながら、このときばかりは心技体充実して、次から次へと遊び興じていた。
午後からは戸隠神社奥社の2?に及ぶ山道を森林浴とばかりのんびりと歩いてみたが、折悪しく雨模様となって中ほどの山門から折り返した。
宿へ戻って夕食後、遊び疲れた子と母が深い眠りに落ちてからはしばらくは読書。この春先から読み継いできた新訳本の亀山郁夫訳「カラマーゾフの兄弟」をやっと読了。その夜はずっと激しい雨音が続いていたが、それも朝方には曇り空ながらあがっていた。たしか最低気温19℃とテレビで言っていたが、帰路19号線を大町市へと抜けようというあたり、もう10時半頃になろうというのに、国道にある気温表示が同じ19℃とあったのには驚いた。この日は関西でも雷雨の荒れ模様でこの夏一番の涼しさだったようだが、さすが信州の涼しさには及ばない。
安曇野に着く頃には晴れ間も多くなり陽射しも強くなってきていたが、風は涼しくそれほどの暑さも感じない。このまま高速を走って直帰するには些か惜しいと、穂高駅前のレンタサイクルを借りてしばしロードサイクリング。店で道祖神めぐりなど記載のロードマップを貰って穂高神社を起点に風に吹かれつ安曇野一帯を周回する。犀川流域のこのあたり、水田やわさび畑のひろがる平地にこんもりと塚のようになった処々に樹々が生い茂っている。そういえば他谷(たや)遺跡とかの縄文文化を伝える竪穴住居址群や墓壙群も近年発掘が盛んなようだ。点在する道祖神や史蹟旧跡ポイントで自転車を止めてはスナップ撮影をしたりちょいと一服。二時間弱ののんびりゆったりのサイクリングだったが、こんどは子どもよりも連れ合い殿がご満悦のようだった。
自転車を返して近くで遅めの昼食となったが、腹を満たして帰りの高速道で眠くなってはと思い私のみ自粛、コーヒーだけにした。それでも豊科から高速に上がって中央道の駒ヶ根を過ぎたあたりで少し眠くなったものだが、冷たいものを飲んだり煙草を吸ったりと抗っているうち眠気も去って、とうとう名神に入って伊吹山のSAまでノンストップで駆けてトイレ休憩。
帰着は午後6時半頃だったが、この年に遠出のドライブはやはり堪える。嘗て4.5日かけて東北路を3500?走ったことも両三度あるけれど、それももう十年近い昔のことだ。とてもじゃないがそんなハードドライブは今後できそうもなく、今回の旅程あたりが体力相応と観念すべし、と思い悟らされたような旅でもあった。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋−101>
 秋にまた逢はむ逢はじも知らぬ身は今宵ばかりの月をだに見む  三条院

詞花集、秋、月を御覧じてよませ給ひける。
邦雄曰く、次の秋まで生きているかどうかも知れぬ身、それは三条院にとっては、文飾でも誇張でもなかった。35歳で帝となり5年で退位、翌年41歳の崩御、その頃はすでに失明して月は心に映るのみであった。御製には「恋しかるべき夜半の月かな」の他にも月光哀慕の悲しい調べが多い。「月影の山の端わけて隠れなば背くうき世をわれや眺めむ」、と。


 声高しすこし立ちのけきりぎりすさこそは草の枕なりとも  藤原顕輔

左京太夫顕輔卿集、長承元(1132)年十二月、崇徳院内裏和歌題十五首、虫。
邦雄曰く、初句切れ、命令形二句切れ、三句切れ、まことに珍しい文体で歯切れの良さ抜群。王朝のきりぎりす詠中、好忠作と双璧をなす。殊に第二句の「すこし」に、優しさがにじんでいるあたり、心憎いかぎりだ。子の清輔と共に俊成・定家らの御子左家とは対立する歌風ながら、胸の透くような簡潔さ、雄勁な調べは、さすがに詞花集選者の真骨頂、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。