それもなほ心の果てはありぬべし‥‥

Alti200662

−表象の森− いじめ自殺

月刊「文芸春秋」の1月号などと遡って買い求めたのは、「いじめ自殺」について吉本隆明が小文を寄せているというのに食指が動いたからだ。
「いじめ自殺、あえて親に問う」と題された掌編の中で、吉本はハッとさせられるような大胆な言葉を発する。
「子どもの自殺は『親の代理死』」と見たほうがよいのだ、そう見るべきなのだ、と。
ただ眼を瞠らされ、しばし内省、黙考するしかないような重い言葉である。
ではあるが、子どもに自殺された親にとっては半狂乱と化さざるをえぬ凶刃とも映るだろう。
吉本の謂い様をかいつまんでいえば、
虐められる子も、虐める子も、みんな心の奥底に傷を負っているのだ。
その傷はどこからきているかといえば、幼い子どもにとって主たる庇護者たるもの、両親とりわけ母親なりが、子育ての時点あるいはそれ以前に、すでに負ってしまっている深層の傷であり、寄る辺なき身の幼な児は全面的に寄りかかるべき親の心の傷を、心から頼り切っている身なればこそ無意識裡に見逃せるはずもなく、自分自身もまた傷ついてしまうのだ、というようなことになろうか。
したがって、「子どもの−いじめによる−自殺」と、現在そう見られている悲劇の数々を、現象としていくら「いじめ自殺」と見えようとも、「いじめ自殺」と捉えて対処法を考えようとするかぎり、その努力はほとんど無効なものになるだろう、ということだ。
まだまだ未成熟な子どもが、遺書として「いじめによる自殺」を書き残したとしても、それは真の因から遠いものかもしれぬ、という視点は重要だ。抑も、成熟した大人の場合でさえ、その遺書に真の因を書き残すことは甚だ難しいにちがいない。
「いじめ」と「子どもの自殺」は結びつけられ、すでに「いじめ自殺」の語は、この国の現代社会の用語として成立してしまった感があるが、人というもの、人間社会というものはそうやって問題の本質からいよいよ遠ざかっていくものなのかもしれない。


−今月の購入本−
A.パーカー「眼の誕生−カンブリア紀大進化の謎を解く」草思社
吉本隆明「思想のアンソロジー筑摩書房
福岡伸一生物と無生物のあいだ講談社現代新書
宮本常一「忘れられた日本人」岩波文庫
J.ジョイス「若い芸術家の肖像」新潮文庫
高見順「敗戦日記」中公文庫
月刊誌「文藝春秋 1月号/2007年」
広河隆一編集「DAYS JAPAN -地震原発−2007/09」
「ARTISTS JAPAN -28 長谷川等伯デアゴスティーニ
「ARTISTS JAPAN -29 川端龍子デアゴスティーニ
「ARTISTS JAPAN -30 安井曾太郎デアゴスティーニ
「ARTISTS JAPAN -31 菱田春草デアゴスティーニ
「ARTISTS JAPAN -32 英一蝶」デアゴスティーニ
「ARTISTS JAPAN -33 酒井抱一デアゴスティーニ


−図書館からの借本−
松永伍一「青木繁−その愛と放浪」NHKブックス
阿部信雄・編「青木繁」新潮日本美術文庫


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋−103>
 それもなほ心の果てはありぬべし月見ぬ秋の塩竈の浦  藤原良経

秋篠月清集、上、秋、月の歌よみける中に。
邦雄曰く、「月の歌」と題して歌は無月にしたところ、天才良経の面目の一端が窺い得よう。月の名所塩竈の眺めは、それでも心に残る何かがあろう。期待と諦観を揺曳して薄墨色にけぶるかの上句と、意外な下句が、独特の世界を映し出す。「久方の月の宮人たがためにこの世の秋を契りおきけむ」は、西洞隠士百首の中のもの、異色の秋月歌である、と。


 唐衣夜風涼しくなるゆゑにきりぎりすさへ鳴き乱れつつ  恵慶

恵慶法師集、きりぎりすの声。
邦雄曰く、初句の「唐衣」が、在来の枕詞から解き放たれて華やかな裾を翻しているような、季節感を存分にもたらす。結句の「鳴き乱れつつ」も、呂律の廻らぬ感と、群れて階調の整わぬ様とが、生き生きと耳の底に蘇ってくる。作者の自在な詠風が躍如としており家集中でも出色。「鳴く声もわれにて知りぬきりぎりすうき世背きて野辺にまじらば」も佳品、と。


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