大比叡やかたぶく月の木の間より‥‥

カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)

−表象の森− カラマーゾフ

光文社の古典文庫シリーズで出版された「カラマーゾフの兄弟」新訳本がずいぶんな売れ行きらしい。
訳者亀山郁夫のたっての拘りから、原作の構成に準じて四部とエピローグの形式をそのままに出版された大小5冊の文庫本は、8月下旬で延べ26万部に達したという。
これと呼応するかのように原卓也訳の新潮文庫版も昨年来より売れ行き好調で、こちらは上中下巻合わせ13万部を越えたというから、まさしく相乗効果、9.11以後の暴力的世界状況に人間存在の悪の根源に迫る帝政ロシア末期のドストエフスキー作品は共振するかとみえて、時ならぬカラマーゾフ・ブームではある。
火付け役亀山郁夫のこの訳業は、出版界における今年のトピックの一つとして数え上げられることになるだろう。

新訳の第5巻には、エピーローグが本文僅か60頁足らずという所為もあって、訳者による詳細なドストエフスキーの生涯を綴ったものと、懇切丁寧なカラマーゾフ・ガイドというべき200頁にも及ぶ解題が付されている。
本編の読後感と照らして成程と合点がいったのは、この小説の大半の部分が口述筆記によって成ったと推量されていることだ。元速記者であった妻アンナを相手にドストエフスキーは自らの創作ノートを手がかりに一気に語り聞かせ、アンナが書きとめ清書したものをさらに手直ししていくという方法で仕上げられていったというのだが、それゆえに文体の勢いも増し、同義反復の語の多用も合点がいき、またくどくどしさともなっているかとみえる。訳者は、このアンナとの協働が、登場する女性たちの形象に生き生きとしたリアリティを与え、多くの実りをもたらしたろうとも推測を膨らませている。
カラマーゾフ」が未完の大長編と目されているのは定説のごとくなっているが、訳者は本編を一部とし、書かれざる二部の構成を思い描き読者に判りよくスケッチしてみせてくれる。アリョーショカと少年たちの集団が主役となる短いエピローグは、同時にその書かれざる二部のプロローグでもあり、本編4部においても、きたるべき「始まる物語」のモティーフが伏線として随所に張りめぐらされている、というのだ。

この訳者には「ドストエフスキー、父殺しの文学」(NHKブックス刊)なる上下2巻本の、ドストエフスキー読みにとっては見逃せぬ詳細な解説本があるが、私の場合、上巻はなんとか読み果せているが、下巻に入ったところで中座したままに打ち過ぎてきたのだ。そこへ「カラマーゾフ」の新訳登場というのでこの機に刊行に合わせつつのんびりと読んでみるかということになった。
たしか1月の末頃に第1巻を読みかけたのだが、なかなかリズムに乗れないままに打ち過ぎていたところ、偶々左の肩鎖脱臼で近くの病院に2泊3日の入院となったおかげで、一気呵成とばかり1.2巻を読み切ってしまった。ところが第3巻に入ってまたまたリズムに乗れないままに徒に日々が打ち過ぎてとうとう8月にまでなってしまうというていたらく。そこで第4巻にかかるまえに、5巻のエピーローグや解題を読んでから入るという逆順をとって、先の信州滞在の折やっと読了したという次第だ。


高見順の「敗戦日記」を読んでいると、すでに敗色濃厚、サイパンなどマリアナ群島陥落による米軍の空軍基地化で、昭和19年11月24日、武蔵野にあった中島飛行機工場への爆撃以来、以後間断なく日本全土へと空襲が拡大されていった、そのさなかの20年1月19日の日記に、
ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟」を読む。第1巻152頁まで。(河出書房版、米川正夫訳)−とあり、その前段に
「病いのごとく書け
 痴のごとく書け
 日記においても然り
 −略− 目的などいらぬ。作用を考えるに及ばぬ。病いのごとくに書け。
と、もはや否応もなく迫り来る死と隣接した日々の現実のなかで、ならばこそ自身の生を見つめるべく創作の衝動に抗いがたく襲われるのだろうか、狂おしいまでの筆致で書きつけている。
同じく、明くる1月20日には、
家に閉じこもり「カラマーゾフ」を読む。第1巻420頁読了。第2巻にかかる。
グルーシェンカとカテリーナとの会見の場面は、息をのむ思いだった。凄い。実に凄い。自分の仕事のつまらなさをいやというほど思い知らされた。
とあり、「日本文学報国会」の集まりや文壇との交わりで戦時下の慌ただしいなかを1月末まで読み継いでいったようだ。
高見順は1907(明治40)年生れだからこの年38歳だが、同じものを読むにも彼我の状況下の甚だしい差に慄然としつつよぎる想いも複雑なものが去来する。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋−104>
 風の音も慰めがたき山の端に月待ち出づる更科の里  土御門院小宰相

後撰集、秋上、題知らず。
邦雄曰く、単なる名月、あるいは田毎の月の美しさを称えるなら陳腐になるところを、風の中の、まだ出盡さぬ月を主題としたのは、さすが大家家隆の息女であった。定家独選の新勅撰集入集はわずか二首だが、続後撰6首、続古今12首等、真価は後世に明らかとなり、総計35首入選。「慰めがたき」には、彼女一人の深い悲しみが籠っているようだ、と。


 大比叡やかたぶく月の木の間より海なかばある影ぞしぞ思ふ  十市遠忠

遠忠詠草、大永七年中、三十首和歌、湖月。
邦雄曰く、夜の比叡山を西から照らす月、比叡連山に遮られて、琵琶湖は半ば漆黒の影に覆われる。「木の間より」と真に迫りつつ、結句の「思ふ」で一つの心象風景となるところ、なかなかの趣向を盡している。享禄2(1529)年、32歳の作。「志賀の浦や向かひの山は影暮れて木の間に海を寄する月影」も同題同趣の作だが、大比叡の見えざる姿が勝る、と。


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