ゆく秋に底なる影もとどまらず‥‥

Nakaharaisakuten

−四方のたより− 我ら何処より来たりて

昨年12月急逝した畏兄ともいうべき中原喜郎氏の遺作展が、昨日(9.11)幕を開けた。
会場は彼が生前毎年のようにこの時期に個展を開催してきた滋賀県立近代美術館

初日とて、梶野哲さんはじめ市岡美術部OBの顔馴染み連も駆けつけるというので、いつもなら車利用なのだが、この日は午後から電車で出かけた。
JR瀬田駅に着いてバス待ちの一服をしていたら、宇座君と出会した。どうやら同じ便に乗っていたらしい。
美術館と図書館を中心にしたびわこ文化公園、俗に文化ゾーンと呼ばれるこの公園に、年に一度必ず足を運ぶようになったのは、ひとえに中原喜郎氏の個展がある所為だったのだが、バスを降りて園内の並木道をそぞろ歩くと、このたびは遺作展であってみればこの通い路も最後になろうかと、いつもならぬ感慨に襲われる。同行の宇座君が「此処へ来るとよく手入れされた植栽にいつも感心させられる」と言っていたが、成る程そのとおりで、かなり頻繁に剪定されているとみえるそこかしこの刈り込まれた植栽を見る眼にも、胸の内の疼きゆえか、かすかな潤みを帯びてくる気さえする。

会場に入るや絹代夫人のにこやかな笑顔に迎えられた。
だがどうにもまともな挨拶の言葉も出てこない。こういう場面で口重のおのが不肖が身につまされる。
展示はほぼ描かれた年次順に配置され、観る者にはゆきとどいた心配りだ。
「我ら何処より来たりて」と題された中原氏の個展は昨年9月の?に至るまで1999(H11)年より唯一2000年を除いて毎年開かれてきた。
主題に沿ったさまざまな意匠を綴れ織りにしたかのごとき第1回のパネル8枚(182×)の大作を中心に、居並ぶ作品は大小78。どれも一度は眼にしたものばかりだから親しく懐かしく、意表を衝かれるようなことは起こらないが、七度にわたった個展の文字通りエキスとあれば、時々の印象の切れ々々が織り重なって、迫りくるものはおのずと厚く中原喜郎世界の幽遠の森と化す。
あれを観、これを観、またあれを観、これを観ては、二巡三巡と会場をめぐること一時間近く、閉館の時間も迫って会場を辞した。

帰路は梶野さん、谷田君、村上君、宇座君と同道、瀬田の駅前で、私は初めてだが、彼らには年に一度の常連(?)となったという居酒屋に入る。
相変わらずの談論風発、梶野さんを囲んでは話の尽きぬこととてない。したたかに呑んで3時間余を過ごしたか。帰りの足が心配になってきたところでやっと重い腰を上げて帰参となった。


「中原喜郎遺作展」−我ら何処より来たりて−は、
9月11日(火)より17日(祝)まで
於:滋賀県立近代美術館ギャラリー

<中原喜郎氏略歴>
1943(S18)年6月10日、大阪市生まれ
金沢美術工芸大学美術科日本画専攻卒業
京都市美術大学美術専攻科日本画専攻修了
京都日本画家協会会員・光玄会会員
聖母女学院短期大学名誉教授


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋−109>
 なほざりに穂ずゑを結ぶ萩の葉の音もせでなど人の過ぎけむ  大弐三位

新千載集、秋上。
邦雄曰く、詞書は「権中納言定順、物へまかりける道に、門の前を通るとて、萩の葉を結びて過ぎければ、言ひ遺しける」とあり、大納言公任の子定順の言葉なき相聞への返歌。「おとづれ」のゆかしさが逆に、しみじみと伝わり、作者の即妙の託言も至極淡々として快い。「物へかへる」即ち「或る所へ行く」と言うのも、なかなか含みのあるところ、と。


 ゆく秋に底なる影もとどまらず阿武隈川の波の上の月  中院通勝

中院也足軒詠七十六首、阿武隈川
邦雄曰く、水上と水底に重なって映る晩秋の月、露わに無常感を歌わず、歌枕も、敢えて懸詞風には目立たさず、過不足のない、しかも個性的な一首に仕上げた技倆は抜群である。16世紀末、20代半ばで正親町帝の逆鱗に触れて丹波に逐われるなど、数奇な運命を享受した堂上歌人、その師は細川幽斎。結句の八音、重く定めなく一脈の哀愁あり、と。


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