恨みじなおのが心の天つ雁‥‥

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―表象の森― リズム現象の世界

以下は、蔵本由紀編「リズム現象の世界」のまえがきとして付された一文からの引用。

 呼吸・心拍・歩行など、人が生きる上で最も基本的な活動はリズミックな現象、つまり同一の単純な事象が繰り返される現象である。広い意味の「振動」と言ってもよい。
太古から人類はこのような身近なリズムとともに生きてきた。日夜の交代や潮の満ち干、浜辺に打ち寄せる波など、外界もさまざまなスケールのリズムに満ちている。
また、時計、モーター、各種楽器など、人は種々のリズムを作り出し、それを制御することによって限りなく生活を豊かにしてきた。
情報化社会の基礎にもリズムがある。現代生活にあふれる電子機器内部では、高周波のリズムが生成され、それに同期して無数のプロセスが進行している。

 生命活動にとってリズムはとりわけ重要である。「生物振動-biological oscillation」や生物時計-biological clock-という言葉が暗示するように、高度な生命活動はリズムの生成とその制御によって支えられている。
神経細胞は適当な条件の下で周期的に興奮を繰り返すが、それは脳の情報処理の基礎である。
また、正確な日周リズムを刻む私たちの体内時計によって、睡眠、血圧、体温などの生理的機能は正常に維持されている。呼吸や心拍の意義についてはあらためて言うまでもないだろう。
 多くの場合、リズムは孤立したリズムとしてあるのではない。リズムは他のリズムと呼応し、微妙に影響し合っている。リズムは互に同調することで、より強く安定したリズムを生み出すが、逆にリズム感のタイミングを微妙にずらせることで情報伝播など高度な機能が生じる場合もあろう。同期、非同期という概念がそこでは鍵概念となる。

 同期現象は自然界に偏在している。
たとえば、釣橋を歩く歩行者たちの歩調が、橋という物体を媒介にして相互作用し、同期して橋を左右に大きく揺らせることがある。
私たちの体内時計は日夜の周期に同期している。マングローブの林に群がったアジア蛍の集団は同期して発光し、林全体が規則正しく明滅する。心臓のペースメーカー細胞群は同期することによって明確なマクロリズムを心筋に送り出す。大脳皮質では、神経細胞群が同期と非同期を複雑に組合せながら高度な情報処理を行っているにちがいない。

このような、振動する要素の集まりから生じる多様なダイナミクス−自然界に見られる多くのリズム現象−を、物理学では、「非平衡開放系」に現れる普遍的な現象であることを明らかにしてきた。
熱的な平衡状態やその近傍ではマクロなリズムが自発的に現れるということはない。しかし、身のまわりの多くのシステムは平衡から遠く隔たった状態に保たれており、エネルギーや物質の流れの中におかれた開放状態にある。地表面と上空との間には温度差が、したがってまた熱の流れがつねに存在し、それゆえ大気も開放系である。また、生物は数十億年かけて自然が生み出した最高度の開放系である。

 このような開放系は一般に自己組織化能力をもち、さまざまな空間構造やリズムを生み出すことが知られている。そこにはエントロピーがたえず生成されるが、流入したエネルギーや物質とともにこれを外部に排出しつづけることで動的に安定性が保たれている。流入と排出がうまく釣り合って、時間的に一定の流れを作り出しているかぎりリズムは存在しない。しかし、このバランスが失われると、定常な状態は不安定となり、しばしば流れが周期的に変動することでより高次の安定性が回復される。これがリズムの起源である。
周期的リズムがさらに不安定化し、カオスに至るシナリオについては近年の力学系理論がその詳細を明らかにしてきたところである。

 このように、マクロリズムの普遍的起源は熱力学・統計力学のことばによって理解することができる。しかし、先にも述べたように、リズムは単に孤立したリズムとしてあるのではない。多数のリズムが干渉しあい、さまざまな時間構造を形成するとき、それは通常の意味での物理学の記述能力を超えている。むしろそこでは、エネルギーやエントロピーなどの物理的概念からも自由な、より抽象化された数理的アプローチが適している。すなわち、システムの物理的な成り立ちを度外視して散逸力学系としてモデル化するところから出発しなければならない。システムは連立非線形微分方程式によって定義されこの方程式が示す安定な時間周期解をリズム現象の基本的要素とみなすのである。このような要素的力学系は「リミットサイクル振動子」と呼ばれる。

 このアプローチをさらに一般化すれば、相互作用する多数のリミットサイクル振動子を散逸力学系モデルによって記述することができ、さまざまな手法を用いてその解析を試みることができる。そのように数理的研究から得られた結論の多くは、物理的対照の違いを超えてリズム現象一般に内在する普遍的様相を明らかにするであろう。しかし、リズム現象の研究にとっては、それのみではもちろん不十分である。これらの数理的結果を再び現実の場に戻し、個々の場面における物理的意味や摘要限界を明らかにし、具体的肉付けを行う必要がある。それによってリズム現象の科学はいっそう実りのあるものとなるだろう。数理と現実の間に起こるこのような往復運動は、リズム現象に限らず非線形現象の科学一般にとって必要不可欠のものである。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春−91>
 鳥が音も明けやすき夜の月影に関の戸出づる春の旅人  藤原為家

大納言為家集、下、雑、暁、建長五年二月。
邦雄曰く、新古今前夜、六百番・千五百番歌合の頃は「春の故郷」さえ目に立つ新悟であった。四半世紀後れて世に出、父定家選の新勅撰集あたりを重んじた為家に、「春の旅人」は眼を細めたくなるような発見であり、秀句の一端だ。柔軟でよく撓う一首の律調、あらゆる武技、遊技に堪能の好青年であったと伝える作者の一面が、一瞬顕つ思いがする、と。


 恨みじなおのが心の天つ雁よそに都の春のわかれも  後花園院

後花園院御集、下、帰雁。
邦雄曰く、春の雁、それも「おのが心の天つ雁」と、不可視の雁の、虚無の空間を翔る姿を言葉で描いた独特の作。初句のやや重い思い入れも、結句の軽妙な助詞止めと、アンバランスの均衡を保つ。よそに見て、都のと続く懸詞も気づかぬほど。御集二千首にあふれる詩藻滾々、典雅な詠風である。院下命の第二十二代集は、応仁の乱のため成立を見ず、と。


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