うらうらに照れる春日に雲雀あがり‥‥

木のいのち木のこころ―天・地・人 (新潮文庫)

木のいのち木のこころ―天・地・人 (新潮文庫)


―表象の森― 西岡常一に学べ

今日は気分転換とばかり気楽に読める書を手にした。
最後の法隆寺宮大工棟梁、名匠西岡常一のイキのいい語り口が愉しめる新潮文庫「木のいのち木のこころ」の天の章(146p迄)だ。
以前、同じ西岡常一の聞き語り本「木に学べ」(小学館文庫)を紹介(05/06/27)したことがあり、かなり重複するところもあるが、いつ読んでも小気味よく心に響く。
なかでとりわけ胸打たれた一件は、現在「鵤工舎」を主宰し宮大工を束ねる小川三夫を内弟子として迎え入れた折のことだ。

小川の弟子入り志願を両三度聞き入れず断ってきた西岡だが、小川のひとかたならぬ覚悟のほどを知って内弟子を承諾したのは1968(S43)年のこと、小川21歳、西岡はすでに61歳になっていた。
棟梁の常一には4人の子がおり、うち二人は男子であった。祖父・父と三代にわたった宮大工棟梁の職を、常一は自分の息子たちに継がせることにはあまり拘泥しなかった。いや心の底では自分と同じように我が子へと継承を願っていたのだが、自身の恣意に拘りこれを強いるには時代の流れがあまりに悪すぎた。
そもそも法隆寺の宮大工棟梁と聞こえはいいが、百姓大工である。改修工事などの大仕事は何百年に一度と滅多にあるものではないから、寺から与えられたわずかな田畑で百姓をし、最低限の食扶持をみずから獲ながらというのが代々の暮し向きなのである。常一が26歳で棟梁となってすぐ法隆寺における昭和の大修理(1934-S09)が始まったから、彼の場合、まさに時の利に恵まれたといえようが、なにしろ終戦の年が長男10歳になったばかりというめぐり合わせである。子育ての真っ只中が仕事とてまったく途絶えた敗戦の混乱期であったから、家族を養うため代々継いできた山や畑を売ってはしのいできたという。おまけに常一は結核を病んで1950(S25)年から丸2年間床に臥していた。
こんな悪状況下では常一とて子どもらに後継を強いることは到底できなかったろう。また子どものほうでもいくらまっとうに親の背中を見て育ったとしても宮大工になることを望むはずはなかろうとは容易に想像がつく。
さて、小川を内弟子として受け入れた時、常一の家では他所へ勤めていた子どもらもまだ同居していた。その我が子らに向かって常一は小川を引き合わせた際、棟梁のあとを継ぐ者として内弟子としたのだから、これからはおまえたちの上座に座ることになる、それがこの家の定法だと言い聞かせたというのである。
少なくとも彼の息子たちは内弟子となった小川より11.2歳は年長であったろうが、職人の家としての徹底したこの遇しようには、然もありなんかと胸打たれた次第。


西岡常一は1908(M41)年生れというから、尋常小学校を卆え、祖父・常吉の言に従って農業学校へ入ったのは大正の半ば。
この進学については、父は工業学校を薦め、めずらしく祖父と意見の対立があったというが、当時まだ現役の棟梁であった祖父がその意を通した。
「とにかくまじめに一生懸命勉強してこい。百姓をせんと本当の人間ではないさかいにな。土の命をしっかり見てこないかんよ、しっかり学んでこい。」と祖父はよく言ったそうだが、この「土の命」という語がなかなか重い。畑仕事の実習ばかりの3年の授業のあいだに、常一少年はこの語の意味に深く思いあたったようである。

「堂塔建立の用材は、木を買わず山を買え」
「木は生育の方位のままに使え」
「堂塔の木組みは木の癖で組め」
などと、宮大工棟梁には相伝の訓があるという。
法隆寺の檜は樹齢1300年を越えるような木であったから、創建より1300年を経てなお朽ちもしない。
檜といえば我が国で木曽の檜だが、その樹齢は600年というからこれでは1000年保つはずはない。台湾には1000年を越える檜の山があるというので、藥師寺金堂など再建の折には、当然自ら台湾に出かけ、山を見、木を見て、材を買いつけた。

また相伝の訓にいう、
「百工あれば百念あり、これを一つに統(ス)ぶる。これ匠長の器量なり。百論一つに止まる、これ正なり」
「百論を一つに止めるの器量なき者は慎み惧(オソ)れて匠長の座を去れ」
一つに止まる、「一」の下に「止」を書けば、まさに「正」そのものとなる、などと常一は洒落のめしてもいるが、この訓などは世間万般に通じよう。
今の世の政・官・業、どんな場面においても、斯くありたいものだが、耳の痛い御仁もまた多かろう。イヤ、そんな自覚があればまだ救われようか、痛くも痒くなく、身に覚えなどまったく感じない不感症が覆いつくさんばかりの現世だ。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春−93>
 うらうらに照れる春日に雲雀あがり情悲しも独りし思へば  大伴家持

万葉集、巻十九、天平勝宝五年二月二十五日、作る歌一首。
邦雄曰く、夕かげに鳴く鶯と共に家持の代表作の一つ。巻十九掉尾にこの歌は飾られた。「宇良宇良尓 照流春日尓 比婆理安我里 情悲毛 比登里志於母倍婆」の万葉仮名表記が天平勝宝5年、8世紀中葉に引き戻してくれる。「春日遅々にして鶬鶊正仁啼く。悽惆の意、歌にあらずは撥ひ難し。よりてこの歌を作り、式ちて締虬を展ぶ」の高名な後期あり、と。


 蛙鳴く神名火川に影見えて今か咲くらむ山吹の花  厚見王

万葉集、巻八、春の雑歌。
邦雄曰く、上句の五・七・五の頭韻を揃えたのは思案の他の効果であろうが明るく乾いた響は、鮮黄に照る岸の山吹と、鳴き澄ます河鹿らの、視・聴両様の感覚にまことに快い。もっともこの景、眼前のものではなくて想像。ゆえになお活写を迫られたのだ。作者は8世紀中葉の歌人伊勢神宮奉幣使を務めたことがある。この「蛙鳴く」は代表歌になっている、と。


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