夢のうちも移ろふ花に風吹けば‥‥

マロニエの花が言った〈上巻〉

マロニエの花が言った〈上巻〉


−表象の森− イサドラ・ダンカンの死

晦日、今年最期の、年初から数えて161回目の言挙げである。
第一次と第二次の両大戦間のパリに花開いた芸術家たちの青春のすべて、藤田嗣治・ユキ夫妻を軸に、岡鹿之助シュルレアリスム詩人のロベール・デスノス、写真家マン・レイ、哲学の九鬼周造や、金子光晴と森三千代夫妻、etc.‥‥、若き芸術家群像の青春の日々、その熱き交流を著者ならではの優しさに溢れた詩魂を通奏低音に響かせ、詳細なまでに描ききったEpisodeの数々、清岡卓行畢生の渾身の長編は上下巻1200頁におよぶ大作だが、長い日々を折にふれ読み継いでこのほどやっと上巻を読了。これほどに読む者の想像を掻きたて心愉しませてくれる書は稀有といっていいだろう。
さしあたりは、上巻の後半P476以降に登場する、20世紀モダンダンスの草分け的存在「裸足のイサドラ」ことイサドラ・ダンカンの悲惨な事故死にまつわる20頁余りの叙述からあらましを引いておきたい。

1927年、夏の休暇をドーヴィルで過ごした藤田嗣治・ユキの夫妻は、その後、美術評論家のジャン・セルツとその家族が待つ、ブルターニュの北岸からわずかに離れたブレア島に渡り、美しい風景を堪能しながら静かに落ち着いた日々をおくったので、パリに帰ってきたのはすでに9月になっていた。
「1927年の9月14日、ニースにおいて、イサドラは新しく知った青年が運転するスポーツカー・ブガッティに同乗したが、自動車が動きはじめるとすぐ、彼女が首に巻いてとても長いスカーフの端が車輪の心棒に巻き取られた。彼女の首は極度に強く締められ、その首は折れ、咽喉は砕けた。自動車は急停止されたが、もう間に合わない。彼女は倒れたまま死んでいた。」
イサドラと旧知の間であった嗣治とユキは、この報せに驚愕、二人に深い衝撃を与えた。
「彼らがすぐ思い浮かべたのは、ジャン・コクトーがときどきイサドラに向かって、その風にひるがえる長いスカーフは使わないほうがいいと、なにかを心配するように言っていたことである。コクトーはどんな審美にもとづいていたのか、このスカーフはイサドラを嫌っている、彼女を後ろからひっぱったり、よろめかせようとしたりすると感じていた。」
「それにしても、イサドラにとって、自動車は悲運をもたらすものであった。彼女は14年前に、二人の愛児を自動車事故で失っていた。」
古代ギリシャの貴頭衣(トウニカ)風の寛やかな、ときに透明な衣を着て裸足で動くなど、革新的な恰好をし、自由で奔放きわまる創作、たとえば、踊りのために作られていない音楽と情熱的に合体する踊りなどで、おのれの清新のかたちを、いいかえれば新しい人間の悩みや喜びを語ってやまなかったイサドラ。」
「彼女はまた恋多き女でもあったが、27歳のときに結ばれたエドワード・クレーグとのあいだには娘があった。」
クレーグは俳優をしたのち、舞台演出・装置で活躍したイギリス人で、彼の演劇論は、フランスの類。ジューヴェやジャン=ルイ・バローなどにも影響を与えたとされる。
「イサドラは32歳のときには、ミシン王の跡継ぎで富裕なイギリス人のパリス・シンガーと結ばれたが、そのあいだには息子ができた。」
「1913年初夏のある日パリで、イサドラは6歳の娘、2歳の息子、シンガーと昼食をした。その後大人二人は仕事に出かけ、子どもたちは家庭教師と自動車で家に戻った。この車のエンジンが途中で止まったので、運転手が外に降りて操作したとき、車は急に後退し、慌てた運転手が飛びついたドアの取っ手ははずれ、車はセーヌ川に落ちて、内部の三人は溺死した。
そんな異常な事故が先に起こっていたのである。」

ロダンはイサドラを「私が知っているかぎりで最も偉大な女性」とまで言っている。
−ブルデルは「彼女によって、一つのえもいわれぬフリーズが生命を得たようであった」と言っている。
−とりわけ、イサドラ・ダンカンの異常な死に強い衝撃を受け、そのことを戯曲や小説のなかの重要な部分において深く形象化している作家がジャン・コクトーである。
彼は「わが青春記」(1935年)のなかでイサドラを追悼しているが、そのなかで彼女を「このイオカステ」と呼ぶ。ギリシャ神話あるいは悲劇のオイディプスの実母になぞらえるのである。

「イサドラ! ぼくの夢想がしばし彼女のうえにとどまらんことを。彼女こそは嘆賞すべき女性であった。お上品な趣味のしきたりに収まらず、それを覆し、それを超える現代とその都会にふさわしい女性であった。ぼくはニーチェとワイルドの言葉を合わせてもじり、「彼女は自分のダンスの最高の形を生きた」と書きたい。−略− それはロダンの流儀であった。私たちの舞踊家である彼女は、着衣がずり落ちて不完全な姿を曝そうと、裸体に見える部分が震えようと、また、汗が流れ出そうと、そんなことには無頓着である。そうしたことはすべて躍動の背後に残される。恋人たちの子供を産むことを求め、その子供たちを得てうまく育て、しかも、たった一度の凶暴な不運によってその子供たちを喪い、パリのトロカデロ劇場でコロンヌ管弦楽団の伴奏で踊ったり、あるいは、アテネやモスクワの大きな劇場前の広場で蓄音機の伴奏によって踊ったりして、――このイオカステはその生きかたに似た死にかたをした、競走用の自動車と赤いショールの凶暴の犠牲者となって。ショール、それは彼女を嫌い、彼女を脅迫し、彼女に警告していたが、彼女はそれに勇ましく挑み、あくまでそれを身に着けていたのであった。」

つづいて、「ジャン・コクトー、彼の傑作の一つとされる「恐るべき子供たち」(1929年)。彼はこの作品を阿片中毒の治療中にわずか半月あまりで書いたと伝えられているが、たしかにそんな回復期の集中性にふさわしい主題の熱気がある。ギリシャ悲劇ふうの現代小説といわれるこの中編において、スカーフと自動車の車輪による偶然の事故死は、いわば登場人物たちを設定したときすでに必然であったような主人公たちの運命に先駆する傍らのある人物の最期として用いられている」とし、その視点からこれを分析詳述してくれている。

さらに、「コクトー古代ギリシャソフォクレスの悲劇を、自分の詩意識に深く合わせながら現代化するという仕事を行っていた。その一応の帰結のように思われる戯曲「地獄の機械(4幕)」(1934年上演・刊行)を書いたとき、それにふたたびイサドラの最期を」、彼女が身に着けていたスカーフを重要なマチエールとして、序幕から終幕にいたるまで、シンボリックに活かしきっているのを、場面を追って詳細に論じつつドラマの核心に迫っている。

のちに藤田嗣治は、日本に戻っていた第二次大戦後の1946(S21)年から48(S23)年にかけて、彼にしてみれば珍しく長い時間をかけた油彩の大作「三人の美の女神」を描いているが、この絵の動機について著者・清岡卓行は、嗣治の内面の奥深くに分け入って、「東京において苦渋に満ちた、しかしまた明るく輝く希望を秘めた自分の再出発を、どのように表現しようかという峨峨の意欲が生じたとき、30数年も前にベルヴュの舞踊学校で眺めたイサドラの「三人の美の女神」が、記憶の底から鮮やかに甦ってくる」と推量し、描かれた「そのうちの一人はイサドラがモデルであると言われるが、裸体である三人それぞれにイサドラの容姿は投影されているかもしれない」とも、この遠い昔のイサドラの「この踊りは、第二次大戦直後の、東京での3年間ほどを、嗣治の頭のなかではたぶん執拗に明滅を繰り返し、油彩の大きなキャンバスのうえでその美しい生命の躍動を揺るぎなく造型するまで消えないのである」と書かせる。

不慮の事故死を遂げたイサドラ・ダンカンには生前に書き残した「わが生涯」という自伝があるが、これに基づいたであろう彼女の伝記的映画が、1968(S43)年、その名も「裸足のイサドラ」として製作され、日本でも公開されている。もちろん私はこれを観ており、彼女にまつわる遠い記憶の彼方とはいえ、この著者が紡ぎだしてくれた彼女へのオマージュに満ちた一章のおかげで、いま鮮やかにいくつかのシーンが甦ってくる。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春−96>
 泊瀬川凍らぬ水に降る雪や花吹きおくる山おろしの風  細川幽斎

衆妙集、春。
邦雄曰く、落花雪の如しの景を歌ったものも、同工異曲、後世になるほど新味を生むのがむずかしくなるが、幽斎の作は泊瀬川の桜、天正9(1581)年47歳の春、長谷寺参詣の折、実景を見て歌った意味の詞書が添えられている。結句字余りが下句の調べをおおらかにした。「なほざりの花さへ愛でて来しものをまして吉野の春の曙」も現地に赴いての秀れた句、と。


 夢のうちも移ろふ花に風吹けばしづ心なき春のうたたね  式子内親王

邦雄曰く、萱斎院御集では、百首歌第三乃ち後鳥羽院初度百首詠進歌に見える。ほとんど勅撰入集という希有の百首詠だが、殊に新古今集へは4分の1。盛りを過ぎた花にわらわらと風が荒れ、それも夢の中、あたかも黒白の写真のネガ・フィルムを見る心地あり、不吉な華やぎは無類。新古今に洩れ、第十一代集まで採られなかったのが不審である、と。


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