影法のあかつきさむく火を焼て

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Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」

<連句の世界−安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」−10

   きえぬそとばにすごすごとなく   
  影法のあかつきさむく火を焼(たい)て  芭蕉

次男曰く、「きえぬそとば」は死者の影法師だ、と見定めた執成-とりなし-付だが、人ではなく影法師を取り出して前句の会釈-あしらい-風に仕立てのは、打越以下三句同一人物の行為が続くと、はこびが輪廻になるからだ。

「影法のあかつき、さむく火を焼て」ではない。「影法のあかつきさむく、火を焼て」である。葦辺、喪屋籠りの人の傷心をあぶり出すところに作意はあるが、句の姿は叙景であって、特定の人情にはない。「火を焼て」は軽く、補助的に読んでおけばよい。

この句には、情景の一転を次座に求める重厚な工夫がある。「影法の」の「の」、「火を焼て」の「て」、それに「さむく」と遣った季語である。句は、人ではなく影法師が火を焚く、と非情に読むこともできる。一方、雑四句を挟んで季を秋から冬に移したのは、月の定座-初裏八句目-をすぐ後に控えての細かな配慮である。
連句では通例、季を移すために雑の句を間に挟むが、雑の句そのものに季をうごかす働きはないから、数句続きといえども雑の前後を同季とするわけにはゆかぬ。

「冬の日や馬上に氷る影法師」-貞享4年「笈の小文」-、
「日既に山の端にかかれば、夜座静かに月を待ては影を伴ひ、燈を取ては 罔両に是非をこらす」-元禄3年「幻住庵記」-。
芭蕉は影法師が好きだったようだ。それにしても、卒塔婆が死者の影だとは常人にはなかなか思い付かぬ、と。


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