となりさかしき町に下り居る

Daisannonou

Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」

−表象の森− 皮膚は第三の脳?

皮膚には第三の脳ともいうべき未知の思考回路があり、生物にとって最も重要な器官とさえ云いうると、資生堂ライフサイエンス研究センターの主任研究員を務める傳田光洋氏が自説を開陳する「第三の脳」-朝日出版社刊-は、たんに外界から分かつだけにすぎぬとみられる皮膚から捉えなおした人間観・生命観がずいぶんと刺戟的で興味深く読める。
著者の説くところを本書の終章にあたる「第6章−皮膚から見る世界」-p176〜-から以下適宜引用すれば、

進化の過程において、ヒトの皮膚と同種の基本構造が現れるのは、両生類から爬虫類にかけてであること。
ヒト皮膚の原型はカエルの皮膚に認められる、といえよう。
爬虫類になると、角層は鱗に変わる。
爬虫類が成長に伴い脱皮するのは、その角層細胞が、カエルなどの両生類やわれわれ哺乳類に比べて、極性の強いリン脂質でできているからだ。
鳥類では、爬虫類の鱗あるいはヒトでいう角層は、羽毛に変わる。鳥類の皮膚そのものの構造は、角層のあるヒトあるいは哺乳類の皮膚に近い構造をもっている。
哺乳類では、鱗は毛に変わる。毛根には脂腺が付属し、毛に脂質を付着させる役割を果たしている。

−スキンシップが先か言語が先か−という問題
ヒトの顔−三木成夫の「脱肛」説
ヒトの顔は、魚類の口腔の内側が外に捲れ出したような形で形成される。譬えれば「脱肛」のようなもの-とこれは三木成夫「脱肛」説なるものだが-、その平面状の顔に、視覚や聴覚、味覚センサーが配置され、端には聴覚センサーが並ぶように集約される。
「顔に毛がない」理由は、感覚四種-眼・鼻・口・耳-が集まった場所で、もう一つの感覚「皮膚感覚」を高めるため、ではなかったか。
「はだかの理由」−「ヒトは全身を顔にした」−ヒトは毛をなくしたことで、スキンシップ-肌の触れ合い-という新しいコミュニケーション手段を獲た。スキンシップによって、ヒトは進化の新しい階段を一歩上がったのではないか。
有毛のヒトの祖先が、いきなり衣服をまとったとは考えられない。まず、裸でも生存できる温暖な環境で、ヒトは全身の毛を失ったのだろう。そしてその代償にスキンシップという新たなコミュニケーション手段を獲た。そして高度な組織性を獲得したヒトは、他の動物たちより優位な立場を得た。さらに環境に敏感になったヒトは、次第に生息域を拡げ、寒冷地を目指したものは衣服を発明し、さらに新しいコミュニケーション手段として言語も発達させた。
言語の定義を「適切な音声を使い分けることによる同種間コミュニケーション」と広義に解すれば、哺乳類はおろか鳥類にさえも見出しうるものである。しかし、皮膚刺戟によるコミュニケーションは、霊長類において頻繁に認められるもので、このためには細かな皮膚への刺戟に対して手の機能の発達が欠かせない。
広義の「言語」より「肌の触れ合い」によるコミュニケーションのほうが、動物全体の進化の過程では新しいに違いない。

―生体の非因果律―について
シュレディンガーによれば、生体は環境から負のエントロピーを取り込み、正のエントロピーを放出して内部環境の秩序を維持しているシステムである。
ブリゴジンの開放系の熱力学では、エネルギーや情報が出入りできるシステムのなかでは「自己組織化」が生じる、すなわち無秩序から秩序が立ち現れる。ここでも因果律は成立しない。
因果律の支配する閉鎖系と異なり、生体におけるような開放系システムでは因果律は成り立たず、その内部環境では、逆因果律とでいうべき現象、すなわち未来が過去を決定する、という原理もありうるのではないか-渡辺慧説-。時間の流れが存在しなかったり、あるいはその方向がわれわれの常識とは異なっている可能性がある。
生体内、とりわけ複雑な構造をもつ大型動物、そして人間の「精神」には、多様多彩な「時間の矢に逆行する」現象が隠れていることだろう。
皮膚は生体にとってその内的「非因果律的」世界を維持、発展させる境界であり、過去から未来へと流れる外界の時間の流れから、「未来から過去へ」流れる世界を護るシステム、なのだと。


<連句の世界−安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」−16

  たそがれを横にながむる月ほそし  
   となりさかしき町に下り居る   重五

次男曰く、「さかし」は賢明・明哲なるさまだが、こざかしい、口さがない、などの意味にも転用される。この語には、別に、「さがし-嶮し-」との混同がすでに中古頃から見られる。こちらの原義は山坂の険しいさまである。つまり「さかし」は、片や人情片や風景を形容する、別系統の二義をもつ面白いことばだ。

「横にながむる」を「隣」に執り成し、「月ほそし」に嶮を見込んで、話を下居-おりい-と作れば、次句は「さかし」を嶮から賢-口さがない-へ読み替えてくれるはずだ、というのが作意のみそである。

仲秋の三日月は鋭く立つ。月齢が秋分頃とかさなれば、殆ど垂直に見える。繊月の立ち具合を横手に見遣る興を「となりさか-嶮-しき」と取り出し、景を人情に移したければ、なるほど人物は「下り居」とでも作るしかないか、と読ませるところに俳諧師らしい話のこしらえ方がある。仮に前句が「春宵を横にながむる月ほそし」とでもあれば、こういう付句は生まれようがない。

下々の人間が高所に住む、という滑稽で「さかし」の両義をうまく丸めた付だが、秋の三日月の低さにも立ち具合にも気がつかぬと、徒にことばの意味を争うだけのことに終わる、と。


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