のり物に簾透く顔おぼろなる

Doumotoinsyoukoukyo

写真は堂本印象作品「交響」

Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」

−表象の森− 堂本印象の世界とALTI第二夜

伝統的手法から抽象に到るまでドラスティックなまでにその画法を変遷させてきた日本画家堂本印象の美術館を訪ねてみた。
昨日は、前日の大雪とうってかわっての青天に誘われ、ALTIの第二夜を観る前に行きがけの駄賃とばかり立ち寄ったのである。場所は衣笠界隈、金閣寺龍安寺の中ほどあたり、市内西北のはずれといった閑静なところ。

「芸術家の前におかれた画布のうちには、芸術家の手が任意に造型し直すことの出来ぬ唯一にして独自の美が先在して隠されている。そして、それは潜在せる造形の構造を辿らねばならぬほどに造形する人の意志を超えている。芸術家はこれを見ぬいて開発に専念すべきである。」
「芸術が大きく変革される時には、いつも現実に大きな恐怖がつきまとうものである。現実は自由ではなく不自由でさえあるが、この受難を媒介として無の底辺から立ち上がって、規制の執着から脱出することによって変革が完成する。」
「地上の形態を超えたる永遠なるものの美を、屈従と苦悩の伝統からではなく、抽象することによって、自由な公共芸術は生まれる。」-1963年-

などの言葉を遺す堂本印象-生1891-没1975-は、昭和27(1952)年初めて渡欧、約半年をかけてパリを中心にイタリア、スペイン、西ドイツやスイスなどを巡っているが、この旅は伝統的な日本画家印象にとって大きな転換点となったようで、その後の画法は具象から抽象へ、新しき造形へとあくなき変貌を遂げていく。
この日、彼のメルクマールともいうべき代表作の一つ「交響」を観ることは叶わなかったが、54歳で終戦を迎えた一日本画家の、その戦前と戦後における造形意志の変遷ぶりを垣間見ることはできた。
帰りに画集「堂本印象新造形作品展」-H17刊@1500-を求めて、館をあとにしALTIへと移動。

ALTIの第二夜は、北方舞踏派の出身という栗太郎作品が突然の休演で、5作品となったので、終演も予定より早かった。昨夜の睡眠不足と心身疲労でいささか鑑賞すること自体辛いのだが、演じられる各々作品も凡庸にすぎ不満がつのって不調に追い打ちをかける。
アフタートークの講評者の顔ぶれは、昨夜に引きつづく上念省三と古後奈緒子、加えて小林昌廣と樋口ヒロユキの4氏。

身体表現には素人の中年男性というよりすでに初老男性と云うべきか、その5人組とバレエダンサー植木明日香が演じた「大原音日記−春の歌」に対し、素人ゆえの動きのぎこちなさが異化効果ともなって衝撃的な新鮮さをおぼえたと総じて賞賛されていたが、いささか称揚が過ぎよう。
50年、60年と人生を経てきた個別の垢がこびりついた習慣的身体は個々バラバラに固有の制度的なものであり、それをそのままに活かした表現を試みるならば、回転などのハレエテクニックを基礎にした振付はミス・マッチのなにものでもない。そのミス・マッチが面白いのだと評されるなら何をか云わんや。嘗て身障者たちとの身体表現を7年もの間、いろいろと試行・模索しつづけてきた経験に照らせば、コチコチに固まった彼らの習慣的・制度的身体をそのままに活かしつつ、彼ら自身がもっと開放的に、もっと愉しく再生しうる動きの領域というものは別なところにあるのだ、ととりあえず云っておこう。

昔、神澤同門であった中村冬樹の12分ばかりのSolo作品も目を覆うばかりのものであった。冒頭に照らし出された映像が、驚くべきことに嘗ての彼の作品の数々、その群舞を中心にした舞台世界をコラージュしたものだったのだが、それを背景にしつつ、暗い舞台を下手から上手へ向かってゆっくりとなにやら蠢きつつも歩を進めてくるすでに初老の彼の肉体は、栄光と悲惨の過去と現在の写し絵、自身の履歴書ともいうべき私小説世界を剥き出しのままに顕わにしただけではないか。これをして「まほろば」と題し、また「Complex’08」と副題してしまう彼のセンス、思考にもズッコケてしまったが、自戒を籠めて云うならまこと無慚やな冑の下のきりぎりす、昔からの顔馴染みながら声をかけることさえする気にならず、早々に会場を退散、車を走らせ帰路についた。


<連句の世界−安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」−19

   蝶はむぐらにとばかり鼻かむ   
  のり物に簾透く顔おぼろなる   重五

次男曰く、ここから二-名残-ノ折に入る。春三句目。現代の歳時記は「朧」を春として扱うが、貞徳の俳諧式目「御傘」-慶安4(1651)年刊-には「おぼろげ、と云詞春にあらず、月を結ては春たるべし」としるしている。其の後江戸中期になって初朧・朧影など朧月の傍題とする作法書は現れるが、朧とだけでは雑の詞と考える解釈の伝統は江戸時代を通じて変わらなかったようだ。尤も、句例は元禄ごろから散見する。その多くは、取合せて春季とするか、全体の仕立てが朧夜を感じとらせる底の句である。

牛車か駕籠か、乗物の簾ごしに見た顔がおぼろに見えたということを、春と云うわけにはいかぬ。あきらかに雑の詞だが、春秋の句は三句以上続くという連句の約束に照らせば、この「おぼろ」は季として一座の承認を取り付けたことになる。
「簾透く顔」は「蝶はむぐらに」の、「おぼろ」は「鼻かむ」のうつりである。後の方は誰でも容易に思い付く連想だが、前は、葎の蝶とは花そのものではなく花の面影の表現だ、と詠み抜いていなければとても思い付かない。簾ごしの顔は花のかんばせだ、とさとらせるように作られている。

仕様は、「鼻かむ」を見送りと見立てた、あしらいの付で、駕中のむ人はむろん貴人、葎の「蝶」と見られる人物である。作意は別離の無常にあり、見どころはその駕中の人を女ならぬ男とした意外性で、身分も下居の尼よりも一段摺上げて高貴の人らしく匂わせている。

打越以下三句のはこびだけを取り出せば、「簾透く顔」はごく自然に女人と読めそうだが-古注以下そう読んでいる-、そうではない。季の句が双方の折にまたがるという、気分転換の難しい巡にたまたま当たってはいるが、名残の折立-初句-を趣向の一つもない只のあしらいで逃げるようでは、連句などやる資格はあるまい。人物や舞台を見替えてはこぶならここは一巻中絶好の箇所である。失意と懐旧-「蝶はむぐらに」-を女から男に奪って、それらしい俤の一つもさぐらせる話ぐらい、設けてあるに違いないと気付かされる。それはまず、光源氏の須磨流寓を措いてはほかにないと考えるのが、常識ある古典の読みというものだ。除名されて退京の余儀なきに到った直接の原因が、じつは朧月夜君-弘徽殿女御の妹-との密会だったということがこの付句には、したたかな俳として利かされている。

そう読める。「おぼろ」は、「鼻かむ」の語縁で情緒的に思い付いただけではないのだ。二句は、この巻で初めて出てきた俤らしい俤の工夫である。「鼻かむ」は源氏の退去を悲しむ人々で、とくに誰某と考える必要はない。

折立のはこびにきて、源氏と朧月夜との出会いが春なら-花宴-、六年後の退京も春-須磨-という程度のことに、これは私も含めてだが、どうして気付かなかったかと思う。不思議である。
「逢瀬なき涙の川に沈みしや流るる澪のはじめなりけむ」、退去にあたって源氏が朧月夜の許へ、余所目を憚って届けさせた消息だ、と。


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