いまぞ恨の矢をはなつ声

Tadasunomori

下鴨神社糺の森

―表象の森― 糺の森とALTI第三夜

日中は10度を越えて春到来を告げるような穏やかな日和だった昨日、三日続きの京都行はALTIに入る前にしばしのあいだ下鴨神社糺の森を散策。
上賀茂神社のほうへは昔行った記憶があるが、この年になるまで糺の森を歩いたことはなかったのでぶらりと立ち寄ってみたのだが、此方は出町柳から近いこともあって人出は多い。若いカップルのそぞろ歩きもよく見かける休日の黄昏ちかくだ。
一の鳥居をくぐったばかりの西隅には河合神社、この境内には大原の里に隠棲した鴨長明の方丈庵が復元され置かれている。一丈-約3?-四方のプレハブにも似た粗末なものだからいかにも置かれているとするが相応しい。
参道を歩いて二の鳥居あたりから東に糺の森へと入ってゆく。小さなせせらぎとしか云えぬ泉川の瀬音に、時折、烏の鳴き声が大きく谺する。もう少し鬱蒼とした森を想像していたのだが、やはり市街地の一隅である、思ったほどのことはないし、樹齢数百年の古木ばかりが森を成しているという感もしないで、些か拍子抜けの体だが神社境内も観て歩き小一時間ばかり時を過ごした。

ALTI第三夜の6演目は今期一番の充実を示した内容であったとはいえよう。
なにしろ、モダンダンス界にあって紫綬褒章-1999年-を受けたという大御所若松美黄氏が埼玉からわざわざのご到来でSoloを踊るというのだから、客席もまた一番の賑わいであった。
その紫綬褒章だが、昭和30(1955)年の栄典制度改正で新設され、その第1号が舞踊家石井漠であったとは、この際調べてみて知ったところで、ここに付記しておく。
アフタートークにおいても講評者5名が勢揃いし、関係者以外の居残り参加も多かったのは、これまた若松効果であろう。その若松氏を中心に話題はめぐり、終演後のたっぷり一時間余を和やかな雰囲気で終始した。
生前の神澤師が、当初よりこのFestivalのプロデューサーを任じてきた船坂氏に「若松美黄を招ぼうよ」と執心していたというエピソードを、幕間に彼から聞かされたのには些か驚きもしたが、成程、その踊りも為人も好漢、好々爺であった。


<連句の世界−安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」−20

  のり物に簾透く顔おぼろなる  
   いまぞ恨の矢をはなつ声   荷兮

次男曰く、「簾透く顔おぼろなる」に、間を隔て、朧化する作意を読み取って、掛け声の気合いを以て付入る趣向である。「いまぞ恨の矢をはなつ」はそれに見合った、荷兮好みの一曲節だが、「矢を放つなり」とも「放つとき」とも作るわけにはゆかぬ。「声」が句眼だ。

評注は口を揃えて、前句の女-上臈-を憎げな男-仇敵-に見替えて、此所で大いにはこびの転換を図ったと云うが、そうした物々しい作りは、やるならもともと折立の仕事で、次なる短句がうろたえて工夫すべきことではない。荷兮の句は、「おぼろ」を本来の用-雑の詞-に戻し、女にもてる男の横顔を憎さげに見遣ったまでの滑稽だ、と読めばよい。

前句の俤を見定めてかかれば-重五の仕立てのたねは一座に披露されたと思う-、名の縁で自ずと平氏を思い浮かべたというような他愛もない事が、ひょっとして「恨の矢」を思い付かせたかもしれぬ。それでもよい。きっかけと作意は別のものだ。俳は-思考や言葉の-成行にも生まれる、と。


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