笠ぬぎて無理にもぬるゝ北時雨

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―表象の森− ALTIの競演<第一夜>辛口評

ALTI BUYOH FESTIVAL 2008 in Kyoto <辛口評>

 アルティ・ブヨウ・フェスティバルの公募公演シリーズの三日間が無事終了し、私としては三度目の辛口評に挑む。
映画では監督、演劇では演出が、その作品を全体的視野で統轄するのを担うが、Modern Dance やContemporaryの世界では、なにゆえ構成・演出・振付と三題噺のようにみな列記したがるのか、以前から大きな疑問、というよりNonの思いを抱いてきた。嘗て舞踊劇とも訳されたバレエの世界ならいざ知らず、Modern Dance やContemporaryにあって、構成と演出の境界はいかほど明瞭に意識され、その仕事の領分を別しているだろうか。
私らの場合、動きのその殆どが踊り手の即興によるものであるから、構成上の一部決め事をした所為で、私を構成としたが、なにやらご大層に、一人をして構成・演出・振付と並べ飾り立てるのは犬の遠吠えにも似て、実体のない影法師のようなものだ。
だいたい、振付それ自身において、構成を孕みうるし、したがって演出をも規制し決定づけていくものだ。何人かの分業ではなく、一人の作業ですんでいるなら、振付の一言で万事すむ筈なのだが、どうしてこうなってしまったのか、不思議といえば不思議、奇怪至極なことではある。
今回出演予定の18演目の内、第二夜の一つが出演者の事情で休演となり、結果として17演目となってしまったが、これら一つ一つを評するにあたって、私自身今は踊る人でなくとも舞踊家に違いなかろうから、実践の徒として自身の舞踊の論理、方法論というべきものを当然有しており、明確にその拠って立つところから裁断するのを旨とした。したがって前2回に比べても、さらに辛口の度を増したかも知れぬが、そこはご容赦願いたいと思う。
   2006.02.15  四方館 林田鉄


−第1夜− 2/09 SAT 

◇KASANE ?-襲- TorioによるImprovisation Dance −21’30” −四方館-SHIHOHKAN-−大阪
 構成:林田鉄
 出演:小嶺由貴、末永純子、岡林綾 演奏:杉谷昌彦 衣裳:法月紀江
Message
 春ならば桜萌黄や裏山吹や、秋ならば萩重や女郎花など、襲-かさね-の色はこの国特有の美学だが、その美意識は蕉風俳諧の即妙の詞芸にも通じていよう。
このTrioによるDance Performanceは、三者の動きの、その絶えざる変容と重畳がとりどりの襲となって、森羅万象あるいは生々流転の心象曼荼羅を象る綴れ織りとも化そう。

<寸評> 自分たちの演目だから評という訳にはいかぬ。いわば後口上よろしくといった体で。
即興-Improvisation-というものは、つねに一回かぎり、けっして再現することができないのは自明のこと。ならば鑑賞に値する作品として成立するのかしないのかといえば、それが為される一回々々において成り立つ、たとえいかなる変容があろうとも。
この作品、21分余りを前半に8分ほどと後半に6分ほどを完全に踊り手の即興に任せ、prologueにあたる3分ほどと中盤あたりに4分ほどを、一応の決め事をし、いくらかの動きも固定させた。そんな次第で私が構成者を名告ることになる。
この日のRehearsalの前、控室で私は踊り手たちに二つばかりのダメ出しをしておいた。特にその一つは受けとめる彼女らにとって具体的で共通に理解しうるものだった筈だ。
そのRehearsalでは、このダメ出しが前半の即興においては見事に攻を奏した。「KASANE?」の取組みをはじめてもっともよい出来、おもしろい空間造形が現出していた。しかし、後半においてはいつもながらの暗中模索といったレベルで此方の願う世界に達しないままに終始した。それは大きな課題を残す現在の踊り手たちの限界でもあった。
さて、本番の出来だが、Rehearsalで一度巧くあたりのついたことを、即興とはいえ踊り手たちはどうしても当て込むようにその意識をはたらかせてしまいがちになる。それが些か露わにはたらいた分、Rehearsalの前半の出来に達し得なかった。残念だが、即興であるかぎりこういうことはよくある。


◇幸せのロケット花火  −21’30” −山本 裕 −東京
 構成・振付・演出:山本 裕  演奏:杉本徹
 出演:石澤沙羅、加藤真愛、佐々木由美、萩原綾、福島千賀子、高橋純一、山本裕
Message
 そして僕らは生まれてきた
NEWSはほんの他愛もないBGM
幸せの‥‥ それはほんの少しの晴れ間から打ち上げる永遠の願い

<寸評> このグループみんな若いが、Dancerとしての表現力は個々それぞれにかなりの達者揃い。細部は個性を活かした振付であり、動きの連続は溌剌とのびやかでしなやか、評家諸氏がアクセスしやすい作品と云ったのは肯ける。
だが、短いSceneの積み重ねはいかにも叙事的、悪く云えば観念で描いたimageの羅列にすぎないのが構成上の弱点だ。ましてや、動きの紡がれかた、繋がりも手持ちのTechnic Essenceのたんに見映えのする羅列にすぎず、それらのJointは身振りやactionめいたものに頼るしかなく、タネが見え透いてしまう。
よって作品の構成としては、細切れのsceneをひたすら繋ぎ合わせ時間を延ばしていくのみであった。作者は、造形の内部に潜む論理、構成力といったものへの問題意識が欠如したまま作品づくりに対しているとしか思えない。


◇The Sun Song −23’00 −red sleep −京都
 構成:red sleep 演出・振付:Peter Golightly 
 出演:Peter Golightly、伊藤文、西村淳、相模純江、那須野浄邦、三國創
Message 
詩、ライブ演奏、ビデオアート、ダンス、そしてHuman Voice。
これらを通じてThe Sun Songは「時間、人生、愛、神と私達の関係を」見直します。
これら4つは同じ物ですか?本当に美しい物ですか?
本作は基本的な転回はあれど即興を多く含み、またこの作品を通じ、時に辛く、そして時に理想主義的な立場から私達と廻りの世界の関係を見直します。

<寸評> Messageにあるように「即興を多く含み」とはまるで見受けられなかった。Peter GolightlyはSingerではあろうがDancerとは評しがたい。彼の身体とその動きは厳しい表現の錬磨を潜りぬけてきたものとは到底思えぬ。それをしもPerformerというならばそれはそれでよいのだろうが、私はその価値を認めるわけにはいかない。
Duoの相手の女性はたしかにDancerではあった。その彼女とともに動いた振りは単純至極な基本のTechnicだったし、その他の動きは舞踏的ふるまいにすぎない。
「The Sun Song」とタイトルにあるように、この舞台での表現の主力は歌にあった。その生の歌と演奏はPerformanceとして臨場する魅力はあるが、これをフォローアップするべきDance sceneは底の浅い観念ばかりが先立つ空疎なもので、演奏ばかりがきわだっていた。


◇myaku −14’40” −much in little DANCE −静岡
 構成・振付・演出:鈴木可奈子+much in little DANCE
 出演:大石文子、鈴木可奈子
Message
 めぐる、めぐる。
違う毎日、違う景色、違う空気。確実なものなんて存在しない。
けれど、その気配はめぐりめぐってワタシの内側に、積み重なっている。

<寸評> 上手と下手に階段状の段差を90度角度を変えて配し、その前にそれぞれが板付きではじまるDuo。展開はMessageの言葉がそのまま当て嵌まるように進行するが、その表現は過剰でもなければその真逆でもなく、舞台空間は緊張も孕まなければ、意想外のことも起こらない。
いまどきの高校生や大学生のGroup DanceはContemporaryであれModernであれかなりのレベルだが、この二人、それがそのままに登場してきた感があるが、如何せんDuoであるがため、そうは問屋が卸さない。実際のところは’99年にグループ結成とあるから、10年近い年季が入っている筈なのに、この程度の試行錯誤をしているようではダメだろう。ショック療法が必要だ。


◇Pleasure    −20’40” −浜口慶子舞踊研究所 −大阪
 構成・振付:浜口慶子
 出演:森本裕子、服部まい、小幡織美、中島友紀子、奥山友希子、西村和佳乃、松尾侑美、浜口慶子
Message
 Pleasure −パラレルな風景−

<寸評> 大きく3つのsceneで構成された。初めに耳慣れたピンク・フロイドの名曲が流れたのには懐かしさのあまりびっくり仰天した。懐かしさのあまりとは、’75年の神澤作品「奴等がどうなったか誰も知らない」でも使われていた所為なのだが、あとの2つのsceneとの整合をみれば、どうしてもこの曲でなければならぬとは思えず、問題は残る。
二番目のDuo、似て非なるAとBが前後にparallelなままに、これまた似て非なるparallelな動きを重ねていく。その表現の位相のずれが見どころなのだが、これがなかなか巧妙に繋がれ相応に展開していくあたり、作者ならではの飄逸味もあり、なかなか愉しめる世界になった。欲を云えば、sceneの終盤でもう少し大胆な破調があれば、ぐんと面白く豊かにもなったろう。
2のDuoから3の群舞への展開に無理はなく、むしろスムーズに過ぎると云えよう。ならばこそ初めのsceneの群舞が、曲といい踊りといい、乖離が甚だしく、全体としては構成に破綻を来しているとしか云いようのないのが問題だ。


◇飛天舞 –Dance of a flying fairy- -11’30” −Oh regina Dance Company −韓国
 構成・演出・振付:Oh regina
 出演:Choi SugMin 外11名
Message
 韓国で基も古い鐘には空を飛びながら楽器を演奏する飛天像が描いている。
飛天像を蓮の舞、飛天舞に構成し、世界平和を願う作品である。

<寸評> わが国ならさしずめ平等院鳳凰堂の内壁に舞う52体の菩薩像か、韓国古典舞踊の飛天の舞は、両の手で艶やかな細布を宙に舞わせ、あるいはシンバルの如き鐘を打ち鳴らしては、ともに身体をくるくると回転させつつ飛翔をあらわす。優雅と云えば優雅この上ないが、単純といえばまた単純この上なく、ただ見とれているしかあるまい。
Prologueの男性Solo、身体のしなやかさ、その表現力もたしかなものであり、Dancerとしての魅力はあるが、その表現とは別次の、女性陣の群舞とまるで異なる世界に棲む孤独の寂寥が漂い、違和がつきまとう。


<連句の世界−安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」−23

   しばし宗祇の名を付し水   
  笠ぬぎて無理にもぬるゝ北時雨   荷兮

次男曰く、旧ると降るを通用にして、雑の句を季に移した付である。前句に「しばし」とあれば、時雨-冬-は誰が考えても思い付く-「しばし時雨」と云い回した例は和歌にある-。それをわざわざ「北時雨」としたのは、前の相対付を謡曲仕立てと読み取って応じたからだろう。出所は、「山より出づる北時雨、行くへや定めなるからん」という謡曲「定家」の冒頭である。「これは北国がたより出でたる僧にて候」と、このあとワキの名告が続く。宗祇は先のほかにも文亀2(1502)年春、越後から美濃に入り、同年7月に箱根湯本で病没した-82歳-。

その宗祇に、世に名高い「世にもふるさらにしぐれのやどり哉」があることを知れば、荷兮の作意はいまさら説くまでもないようだが、工夫はむしろ上の十二文字の方にある。「手づから雨のわび笠をはりて、 世にふるもさらに宗祇のやどり哉−芭蕉」-虚栗、天和3年刊-。「手づから雨のわび笠をはりて」が面白く心にのこっていたから、そして今その人が、「笠は長途の雨にほころび」て風狂の席を共にしているから、「笠ぬぎて無理にもぬるゝ」と翻したのだ。「侘と風雅のその生にあらぬは、西行の山家をたづねて、人の拾はぬ蝕栗也」-虚栗跋-と云い放った俳諧師に対する、一拶の工夫である。美濃路ならともかく尾張名古屋で、北時雨などに常なら濡れたいと思わぬが、濡れずに治らぬ今日その場の成行が風狂風狂たるゆえんだ、と読んでもよい。「方角や水をしらする北時雨−加慶」、加慶は荷兮の若き日の号である。北時雨は気に入った季語でもあったようだ、と。


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