しらしらと砕けしは人の骨か何

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―表象の森− ALTIの競演<第三夜>辛口評

ALTI BUYOH FESTIVAL 2008 in Kyoto <辛口評>

−第3夜− 2/11 MON

◇Road 〜みちの空〜  −24’50”  −MOVE ON −大阪
  構成・振付:竹林典子
  出演:竹林典子、小平奈美子、山口香奈、家弓明子、竹中智子、戸島美季、北野万里子
Message
 Road 長く長く続く 終りのない道 時に流され 時に立ち止まる いつしか見つける myroad
私達は、いつからここにいるのだろうか?
遠い過去 巡る巡る 過去からの記憶 とてもあたたかい とても懐かしい あなたは誰? 私は誰?
ふと瞳を上げて空を見つめる 見えないもの 聞こえないもの 見えますか? 目を閉じて心で見つめると そこにいる私 ただ素直にありのまま受け入れる 大切な私がそこにいたから
Roadは続く 私の道を見つけて そらに向かって歩き出そう

<寸評> このグループを観るのは’06年につづいて2度目。
prologueを5人ではじめ、solo、solo、duo、soloとつなげ、lastに7人全員が思い思いの明日を胸に抱きつつこれからの長いroadを歩み出していくといったimageを、此所の舞台機構である段差を使って抒情あふれる絵にしている、と一応はいえよう。
Sceneごとに舞台の段差を変えていく演出はよく計算されており称揚すべきところだが、その反面少々煩わしいといわざるを得ない。これだけの機構があるなら一度それを駆使してやってみたかったというなら、それはそれでよしとしよう。だが、舞台の転換のための動きがつなぎとして生まれ冗長に堕してしまう落とし穴もあるのだから、演出上の必要最低限にして、こういう試みはこれっきりにして貰いたいものだ。

身体の使い方、動きのありようには好感のもてる素直さとのびやかさがある。だが動きの単位は小節ほどに短く、動きと動きのつなぎ方もたんに数珠繋ぎのものでしかなく、所謂切り貼り細工だ。もう少し息の長い動きの展開、動きの紡ぎ出しを可能にしていく研鑽を望みたいものである。

◇老犬と話す    −15’30”  −若松美黄 −埼玉
  演出・振付・作曲:若松美黄
  出演:若松美黄
Message
 愛犬のバロン君、18歳、肝臓に腫瘍、月に一度は病院通い。白内障が進んだか、段差にふらつく。このところ裏庭に狸が出てくる。「バロン見張ってないと狸が、裏口のサンダルを持って行くよ」。まだ逞しく吠えるが、痩せてきた。来春には千の風になるのかも?
物価高騰の年金生活。ダメ政府、ダメ企業!と怒る私も不器用な人生。
夕焼けだよ。散歩に行こうか? バロンと共有した18年か〜。そんなひと時のダンス。

寸評> ほんとに犬と話しちゃったよ! というのが第一感、イヤ、驚きました。
戦後の現代舞踊を牽引してきた一方の雄たる73歳の身体が、遊び心もふんだんに、愛する老犬と語り合い、日常のあるがままの心象に身を泳がせていくさまは、虚心坦懐に胸打たれるものがありました。
されど、後進の身として願わくば、その短いsceneの重ねのなかで、若松舞踊における動きの骨法を、展開の論理を、ほんの少しなりとも覗き見たかったのだけれど、それはsoloゆえなのか、しかと覗えぬままに終ってしまいました。

◇Share   −22’00”  −n-chord −京都
  構成・演出・振付:蒲田直美
  出演:蒲田直美、長田直子
Message
  二歳になる双子の女の子が話してる。 「半分こ」「順番・交代-かわりばんこ-」「どうぞ〜」‥‥
友達になるために最初に覚えたコト‥‥?
大人になって当たり前のコトだった。‥‥でもホントウに出来ているのかな???

<寸評> 舞台中央に小さな白いBox、イスともつかぬ、かといってオブジェというにはありきたりにすぎる。
左右に向かい合った二人の少女の手のみが、一条の光に照りだされて、動く‥‥それがprologue。
やがて少女たちは、反目し、諍いを繰り返し、離反、傷ついた孤独のなかで彷徨い、欠けた心を求め合う。
lsatにまたprologueのsceneに戻るが、むろんそれは成長した少女たちの姿なのだろう。

三夜の演目すべてにわたって共通にいえることだが、劇的構成の起承転結に照らせば、起があり承があっても転がないことだ、あるいは序がり急があるとしても、効果的な破がないということである。
20分の作品をいくつかの場面で構成するとすれば、主調音に対する反-主調音、「転」とも「破」ともなる場面を要請されようが、それがない、あったとしても弱くて成り果せていない。

それともう一つ、このグループなどには声を強めていわなければならないが、動きはimageの奴隷じゃないということ。先にImageありきで動きを引っ張り出そうとしても、そんなの大概つまらない。動いてみたその動きそのもののなかに偶然にも孕まれた、言葉になど言い尽くせぬimageを見出さなきゃ、固有の表現なんて、身体表現の可能性なんてないということだ。

白い夜   −20’40”   −河合美智子 −兵庫
  振付:河合美智子  音楽:O.Gplijof
  出演:張緑睿、宮澤由紀子、河合美智子
Message
 愛する人、何が起きたの? 私の目はたえず泣いている 
滅びたものを見下ろす高い崖の上で 時は過去を掬おうとむなしくめぐる
私には今日の自分がわかる でも、明日は何者になっているんだろう。

<寸評> ゆったりとしたBalladeとup-tempoな曲調が小刻みな交替を繰り返しながら、男と女2人のTrioが関係のvariationを繰りひろげていく。
Modern Danceを標榜するこの作者の振付は、動きを空間の軌跡へと展開していこうとする意志が明瞭にある。猫も杓子もの如きContemporary趨勢の現況にあって、この傾向は稀少に値するといえるだろう。

私がこの作者の作品を観るのはこれが三度目だが、そのたびに惜しいと思わされることは、形成されるひとつ一つの場面がかなり短いもので、次から次へと小刻みな展開に終始することだ。どんどん目先が変わるのだから退屈する暇もない代わりに、ざっくりとした強い印象を残さない。
おそらく作者の心の内では、流れるように繋がれる個々のsceneそれぞれに、意味づけなりimageが貼り付いているのだろうが、それが全体としてしっかり構築されてこないのである。20分余を起承転結の4場面、序破急なら3場面と、大掴みに捉える巨視的な作品への把握が必須と思われるのだが、今回もまたその壁を越え出ることは成し得なかったようだ。

◇I1 neige    −15’30”−   −MIKAバレエスタジオ −京都
  構成・演出・振付:丸山陽司
  出演:喜多智美、児島頼子、前田あずさ、平尾美由紀、秋山莉乃、伊藤宥香、西野実祐
Message
 かねてより、「雪」を表現してみたいと思っていました。
雪に縁遠い街で生まれ育った為か、雪を見ると胸が躍ります。
この作品に難しい意味はありません。ただ、「雪」そのものをイメージしました。

<寸評> 作者がMessageにいうとおり、「雪」なるものをimageとして追い、そのvariationを、Ballet-technicを駆使し、ひたすらsceneを重ねた習作といえる。
それにしてもDancerたちすべてToe-shoesを着用しなかったのは、どうした訳だったのだろう。Balletにしてはテンポの速い動きが次から次へと重ねられ、機敏で強靱な身体の切り返しが求められる動きの連続だったからかとも思ったのだが、それが決して功を奏していたとはみえない。ならばむしろ定法どおりToe-shoesを着け、その制約からくる動きの緩急を活かして振付けていったほうが、よい結果を獲たのではなかったか。

◇百ねずみ   −17’30”−  −セレノグラフィカ −京都
  構成・振付:隈地茉歩  演出concept:岩村源太
  出演:阿比留修一、隈地茉歩
Message
 深川ねずみ。利休ねずみ。銀ねず、白ねず、小町ねずみ。
この色に、百通りの名を付けるほど、日本人は恐ろしい。

<寸評> 三夜全体の演目のトリを務めたこのグループに対するコンテンポラリー・ダンス世界の認知のほどはすでに中堅の位置を占めているとみえる。
意表を衝いた新聞紙の多用、このモノとして存在のきわだつオブジェの効果は、この場合にかぎらず、底知れぬものがあるといえよう。
嘗て私もまた新聞紙を大いなるオブジェと化すまでに多量に用い、舞台全面を紙の海とも山とも化し、これを表象の場としたことがあるが、それはコンセプシャルアート華やかなりし’72年、すでに36年も昔のことだ。再びこのモノ、この手を使ったのはある演劇の舞台、ここでは演者たちの取り巻く世界を果てしなき荒野と化すに充分な効果をもたらしたが、これとて’83年のことだった。
ことほどさように、舞台に現前するオブジェとしてのモノは、繰り返し再生産され、新たな表象の世界に復活する。

さてこの作品だが、モノとしての新聞、オブジェの功用に惹かれて場面をつぎつぎと重ね、その存在が舞台全面を支配するまでに到ったとき、事の始まりよりすでに15分を過ぎていたか、壮大なる序章ともいうべき世界を現出せしめたが、そこへ架橋すべき身体の表象世界は未だ見ぬ課題として残されたまま、なかば無為に、なかば突然に、作品はそこで閉じられた、というしかない。
この試行による成功と失敗が、このグループの今後の作品にどのように係わるか、そこを見てみたいという期待はのこる。


<連句の世界−安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」−25

   冬がれわけてひとり唐苣   
  しらしらと砕けしは人の骨か何  杜国

次男曰く、朧化の狙い-「ひとり」-について思案をめぐらせた末、前句を「無理にもぬるゝ」人のあしらい-人物の二句続-と見定めれば、当然ここは場の付である。

「砕けしは人の骨か何」に「しらしらと」と冠したのは、先の「しばし」と同様、裁ち入れて証としたことを覚らせる暗示的手法だが、同じ「しらしら」でも梅花を手折る風流のすさび-和歌-と、白骨を拾う風狂-俳諧-とでは違う、と杜国は云いたいらしい。「雪月花」の真は、白尽しの花に迷う白頭翁ではなく、野晒しだと云いたいのだろう。そう読みほぐすと、この句にはもうひとつの作意が現れてくる。

「野ざらしを心に風のしむ身哉」、芭蕉が江戸を立ったのは同年-貞享元1684)年-8月だった。「紀行」の執筆は翌2年4月の帰江後のことだが、句はむろん行く先々で披露されていた筈で、杜国の作りは甚深なるもてなしでもある。場景を以て諷した、この付の狙い気付くと、戻って、荷兮-笠ぬぎて-・野水-冬がれわけて-二句一意の粋狂までも、なにやら「野ざらし」の俳諧師その人の姿に見えてくるから連句とは不思議なものだ。

俳の工夫は「人の骨か何」と謎のたねをのこしたところにあり、仮に「しらしらと砕けしは人の骨ばかり」「人のされかうべ」とでも作れば、珍客馳走の興など忽ち吹っ飛んでしまう。三句、只のしらけになる。「何」は次句に趣向一新をもとめるためのくつろぎの手立てには違いないが、はたらきはそればかりではない。

「唐苣」が「蕪菜-かぶら-」でも「清白-すずしろ-」でも、「独活-うど-の芽」でも一向に差し支えないような読み方をすれば、「ひとり」を朧化した面白さにも気付かず、ひいては人物の付と場景の付の見分けもつかなくなる、と。


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