うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに

銃・病原菌・鉄〈上巻〉―1万3000年にわたる人類史の謎

銃・病原菌・鉄〈上巻〉―1万3000年にわたる人類史の謎

Information<筑前琵琶へのお誘い>

―表象の森― 死の贈り物−病原菌

図書館で借りていたJ.ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」-草思社刊-の上巻をざっと読み通したが、本書は世界史を習ったばかりの高校生にも充分理解がともなう平易な文体で書かれており、上下巻合わせて650頁といささか長大だが、いまどきの高校生にこそお奨めの良書といえそうである。
上巻の終章は、全4部構成のうちの第3部「銃・病原菌・鉄の謎」における初めの章として「家畜がくれた贈り物」と題されている。
前章や前々章において、羊や山羊、牛馬・豚などの大型草食哺乳類が家畜化されていった大陸間格差の事情を詳細に論じたうえで、それに伴いそれら動物由来の感染症-家畜からの死の贈り物-と共存しつついかに克服していったか、また、いかにしてそれら感染症の病原菌が旧大陸-ヨーロッパ-からアフリカや南北アメリカ、オーストラリアなど、或いは太平洋の島々に、どのように伝播されヨーロッパ支配の地球規模的な拡大をもたらしたかを詳述している。

「動物から人間にうつり、人間だけが罹るようになった感染症は、旧世界と新世界の出会いに影響を与えただけではなく、さまざまな歴史上の局面で結果を左右するような役割を演じている。ユーラシア大陸を起源とする病原菌は、世界各地で、先住民の人口を大幅に減少させた。太平洋諸島の先住民、オーストラリアのアボリジニ南アフリカコイサン族-ホッテントットブッシュマン-が、ユーラシア大陸の病原菌がもとで大量に死んでいるのだ。それらの病原菌に初めて曝されたこれらの人々の累積死亡率は、50%から100%にのぼっている。たとえば1492年にコロンブスがやってきたときにおよそ800万人だったイスパニョーラ島の先住民の数は、1535年にはゼロになっている。1875年、当時のフィジー諸島の人口の4分の1が、オーストラリア訪問から戻ったフィジー人酋長とともにフィジー諸島に上陸した麻疹の犠牲になって命を落としている-大半のフィジー人はすでに、最初にやってきたヨーロッパ人が1791年にもたらした疫病がもとで死亡していた-。ハワイ諸島では1779年にクック船長とともに梅毒、淋病、結核、インフルエンザが上陸した。それにつづいて、1804年には腸チフスが流行した。そして、伝染病のちょっとした流行が次から次へとつづき、その結果、1779年に50万人あったハワイの人口は、1853年には84000人にまで激減してしまった。さらに、天然痘がハワイを見舞ったときには、残りの人口のうちの約1万人が犠牲になっている。」-P315〜6-

50%はともかく100%-ゼロ-にまで到ったというイスパニョーラ島の場合などまったくもって驚きを禁じ得ないが、現在のアメリカ合衆国における先住民の人口比率が1%に過ぎないことと照らせば、限りなく100%に近い壊滅的打撃を受けた地域が大多数を占めるというのが歴史的事実であるようだ。
少数のヨーロッパ人が、圧倒的な数の先住民たちにとってかわりその地を征服し支配していった要因として、よりすぐれた武器、より進歩した技術、より発達した政治機構を有していたというばかりではなく、彼らが家畜との長い親交から免疫を持つようになった病原菌-とんでもない死の贈り物-が、彼らの意図せざることだったとはいえ、結果として先住民たちにもたらされたことが非常に大きかったわけだ。


<連句の世界−安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」−31

   巾に木槿をはさむ琵琶打   
  うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに  芭蕉

次男曰く、名残ノ折の裏入。景も情も、転ずるのに恰好の巡である。さいわい、秋三句のあとだから雑の句にも移せる。「琵琶打」の含みを取り出して無常を付けている。名残の裏に入ってまで俤さぐりは煩わしいが、たとえば、謡曲「敦盛」に思い及んだと考えてみてはどうだろう。須磨の浦の夕まぐれ、草刈男の笛の音を聞き咎めて敦盛の菩提を弔う蓮生坊-熊谷直実-を、「うしの跡とぶらふ」旅の琵琶法師に見替えれば、これは俳諧になる。いずれにしろ、この句作りは平家一門の滅亡と無関係ではなさそうである。琵琶の名手経正-敦盛の兄-が討死にしたのも一の谷だ。

「跡」がうまい。「夕ぐれに」が良い。「木槿」を一日の栄と読み取っていなければ、こういう言葉択びも出て来ぬ筈だ。第一、「夕ぐれ」が「月を見て」と差合になる。とりわけ感心するのは、先には野水の「郭公」を侘の実に奪い、今また、荷兮の「木槿」を無常の真に執り成した手際で、芭蕉という男の結庵と旅の生きざまを、したたかに見せられた気がする。「野ざらし」の途次、何処ぞで出会ったのではないか、と思わせるような臨場感のある句だ。

通説は、前句の「琵琶打」から平安前期の盲目の琵琶法師蝉丸に思い至り、その旧跡が「栄花物語」などに見える関寺牛仏の弥勒堂と同じところ-逢坂山-にあることに興を覚えた付だと云うが、牛塚の云伝えなど村々にある。ここも、名もなき牛捨場と考えて一向に差し支えない。むしろそう眺める方が風情になるだろう。「跡」が俳言だとわかれば、たまたま牛が一頭死んだらしい、と素直に読んでもよい、と。


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