巾に木槿をはさむ琵琶打

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Information<筑前琵琶へのお誘い>

―表象の森― 流山児の楽道

小劇場運動華やかなりし70年代、「演劇団」を率いて全国を廻っていた流山児祥が、中高年の素人衆に「演劇で遊びましょう」と呼びかけて生まれた「楽塾」10年の歩みなど、生の体験記を聴く機会を得たのは、先週の金曜日-2/15-の夜、神戸学院大学伊藤茂教授からのお誘いゆえだった。

毎週金曜の夜は、連れ合い殿が琵琶の稽古へと参じるので、いつも私は幼な児-愈々今春小学校入学だが-とお留守番と決まっており、外出するとなるとどうしても子連れの身となる。狭くて暗い小屋の中に詰め込まれるようにして2時間ほども芝居を観るなど到底無理なことだろうが、トークの席ならどうにか耐えられるかと思い、ながらくご無沙汰の続いたちょっぴり懐かしい心斎橋のウィングフィールドに出かけていった。

昨年10周年を迎えたという中高年劇団「楽塾」がとんな集まりでどんな活動をしてきたかは、その席で貰った資料とりわけ16頁だての記念パンフに年々の演目なども網羅されてあり、この冊子を見ればよく理解できる。
流山児のトークは、楽塾の本番舞台のビデオを選りすぐって紹介しながらのもので、どこまでも具体的、現場からの報告そのもので、だかろこそ一見に値し、拝聴するに愉しきものではあったが、彼がこの2.3年前に始めたという、高齢者劇団「パラダイス一座」に話題が及にいたって興は大いに盛り上がった。

昨年暮の12月、パラダイス一座の第2弾となった公演「続オールドパンチ〜復讐のヒットパレード」は下北沢のザ・スズナリで10日間興業となり連日満員の盛況だったというが、ソリャ然もありなんである。なにしろ主演俳優は、失礼ながらとっくに此の世の人であるまいと思っていた、昭和12年文学座創立当初から参加し戦後ずっと演出として君臨してきた戌井市郎センセイ、1916(T05)年生れというから御年92歳になられる妖怪の如き古老である。この怪事に遊び心を刺戟されたか我も我もと集った役者群・スタッフ群は多士済々にして豪華絢爛とも魑魅魍魎の世界とも映るから、このうえない祝祭空間の現出となろう。客を呼ばない訳はない。

流山児は「楽塾」や「パラダイス一座」を以て「楽道を見つけたり」というが、これまた然もありなん。
古来、芝居とは、河原者とは、道楽の極みである。
また、芝居とは、その時々、時代の申し子でなければなるまい。ならば、一介の市井の徒、無名のうちからこそ興るべきもの、それが正統というべきだろう。当節の如く役者の子がまた役者を志すなど例外と見るべきだし、能や歌舞伎のように子々孫々と受け継がれゆくものこそ異端とみるべきだろう。
未だ熟せぬ若年だろうと、不惑の中高年だろうと、はたまた遊行期を迎えた老年であろうと、無名から興るが王道であり、この道楽の極みこそおのが楽土ともなるものだ。


<連句の世界−安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」−30

  日東の李白が坊に月を見て   
   巾に木槿をはさむ琵琶打   荷兮

「巾-きん-に木槿-むくげ-をはさむ琵琶打-びわうち-」
次男曰く、「槿花一日の栄」ということばがある。ムクゲは朝ひらいて夕にはしぼむ。どうしてまた月見などに取り合せたりしたのだろう、とまず思う。加えて、木槿は古来、初秋の季に一致している。一方、月は兼三秋ではあるが、「月を見て」といえば仲秋、とりわけ十五夜だろう。名月は二夜あるから、九月十三夜つまり後の月見とも読めなくはない。これなら晩秋もそろそろ肌寒い頃になる。

句は、約束に従って秋三句目、いくらなんでもこの季戻りは無茶だ。熟練の俳諧師がそれを承知で「巾に木槿をはさむ」と云うのなら、こだわり方に趣向も主張もあるに違いない、というところから読みが始まる。連句の面白さだ。

李白だけでは片手落ちだ、というところに笑があるだろう。といって、あからさまに杜甫を持ち出すわけにもゆかぬから、「飲中八仙歌」からもう一人を取り出した。
「汝陽ハ三斗ニシテ始テ天ニ朝ス、道ニ麴車ニ逢ヘバ口ヨリ涎ヲ流ス、封ヲ移サレテ酒泉ニ向ハザルヲ恨ム」。
汝陽王は、玄宗の甥である。手のつけられぬ呑んだくれのように読めるが、じつは玄宗が開元年間、最も深く信頼した賢王である。天宝9(750)年、いまだ壮年にして歿し、太子太師の称号を贈られた。その汝陽王が晩年、杜甫の良き庇護者であったことを、荷兮は知っていたのではないか。
若き日の汝陽王は騎射に長け、鞨鼓-両杖皷-の妙手であった。或時、玄宗は紅槿一朶を摘んで彼の帽上に挿して、舞山香を舞わせたが、これを打ち了えるまで花を落とさなかった、という故事が「開元遺事」などに見える。

杜甫の俤を探って、そのパトロンの若き日の故事に行きついたところに、俳諧師らしい心の動きがある。どうやら荷兮にとって「木槿」は趣向上欠かせぬ素材だったようだ。丸帽を頭巾か鉢巻-巾はもともと手拭状の布帛を云う-に、鞨鼓を琵琶に取替え、わざわざ木槿を挿ませ、弾奏を「打」と遣った思い付きは、風狂の工夫と云えなくはないが、「木槿」を実の季と読むには、夜通し月を見た翌朝のこととでも考えなければ、無理がある。

結局この「木槿」は「琵琶打」を平家琵琶の弾奏と面白く覚らせるための、隠喩的取り出し-槿花一日の栄-と読むしかなさそうだ。丈山遺愛の小楼で月を観るほどの風流人なら、相応しいのは雅楽ならぬ平曲だ、と解すれば肯ける。自他いずれとも読める前句の作りを、他と受け取って、琵琶という小道具のあしらいを以てした付で、むろん、嘯月楼に琵琶を持ち込んだと考える必要はない。
諸注いずれも、月見の宴の誰か、又は呼び入れられた琵琶法師と解している。それなら「木槿」を実と読むしかなくなる、と。


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