県ふるはな見次郎と仰がれて

Sotuensiki

―世間虚仮― 凝り型の卒園式

生後6ヶ月から丸6年ものあいだ毎日通い続けた保育園の、今日はハレの卒園式だった。
この日をともに迎えた同級の園児たちは39名、定員120名で0歳児から年長組の5歳児までが洩れなく通うこの園で39名というのは、例年になく多い園児が巣立つことになる。

それにしても園を挙げての一大セレモニーであった。
縦割り保育という特徴と玄米食有機野菜を主体に乳幼児の食育に格別の配慮をした独自な保育方式に強い理念性を込めた園長自身の、園児たちの胸にしっかりと刻み込まれる日となることを、幼な心にも記憶に残るセレモニーをとの思い入れが随所にあらわれた、卒園児たちの入場から始まって最後の記念撮影が終るまで3時間半にも及ぶ長丁場のもので、さすがの私も畏れ入るほどの凝り様の演出であった。

園長自ら一人一人に修了証を手渡す授与式。
一人ずつ名前が呼ばれ演壇に立つと会場はその都度暗転となって、その子の園生活での想い出のショットが4葉、コマ送りでスクリーンに映し出される。スライドと同時進行で、その子について、ああだったネ、こうだったネ、と短いコメントが進行役の保母さんの口から語られる。その間30秒ほどか。と演壇はすぐにも明かりが灯され、名前、生年月日を園長自身に読み上げられ、向かい合った園長から子どもへと修了証が手渡されるのだが、これでまだ終らない。さらに園長は小声で子どもになにやら二言三言話しかける。その内容は離れた父母の席までは聞こえてこない。その子どもとの園長流の私的な交わり、秘密の会話なのだ。そうしておいて二人はいかにも仲間同士なんだとばかりハイタッチをして、子どもは回れ右、演壇を去り際にもう一度立ち止まって、「ぼくはポケットモンスターの??になりたいです」とか「わたしはケーキやさんになりたいです」とか、客席の父母たちに向かって思い思いの宣言をして立ち去るといった段取りで、やっと一丁あがりなのである。

こんな調子だから、一人の名が呼ばれ次の子が呼ばれるまでにほぼ3分弱はかかったろうか、39人の園児すべてが一巡するまで2時間近くを要する始末で、いくらなんでもこの趣向は些か凝りすぎの演出だろう。

可哀相だったのは、残る園児たちの代表としてこの式に付き合わされた年中組の20名ばかりの子どもたちだ。彼らの出番はたった一ヶ所、このあとに輪唱した送る歌のみで、そのために延々と長い時間、固い木の椅子に座らされてつづけていたのだから。
狭い会場の両サイドにずっと立ちん坊だった20数名の保母さんたちにとってもかなりの苦行だったにちがいないが、彼らにとっては長い日々の労苦の末に迎えたけじめのハレの日とあれば、さまざまに想いもよぎるとみえ、最後に演壇に上がって保母さんたち全員でこれまた別の送る歌を輪唱したときには、それぞれみな感極まった様子で、セレモニーは大団円のクライマックスを迎えていた。

そして屋外に出て春うらら蒼天の下で出席者全員の集合写真、さらには一人一人の子と親と園長とで記念撮影と順番を待つことしきり、これにおよそ30分近くは要したか。
9持30分に始まってもうとっくに昼時だが、ここまでやるともう果てしがない。親たちも子どもそれぞれにゆかりの保母さんたち一人一人と想い出の記念写真をと次々に撮りまくるといった光景が続いて、やっと三々五々帰りゆく。

まあ、なんとも驚きの卒園式、ハレの半日だったこと、わが家では一回こっきり、これっきりのことゆえ、バカバカしいとシラけきる訳にもいかず、ほのかな感懐とともに過剰さゆえの倦怠がないまぜになった奇妙な気分が漂う。

園長坂下喜佐久氏は、兵庫県教育大学大学院を修了、社会福祉法人喜和保育事業会理事長、傍らPL学園女子短期大学教授を務めるという。昭和52年に大阪市南港ポートタウンにて「きのみ保育園」を開園、手作りの日本食の給食を提供し続けている。また今年で開園12年の姉妹園「きのみむすび保育園」は大阪で数少ない年中無休の保育園として地域に無くてはならない存在となっている、と。

保育のあり方、園の運営の仕方は、中小の企業同様に、良きにつけ悪しきにつけその経営者、中心となる人物の刻印を色濃く帯びているということを、ここでもまたつくづく痛感。しかしことが保育や教育といった現場であればこそ、個人の影を帯びた独善の弊に対して、つねに当事者は敏感でなければなるまいが、権威というわけの判らぬ付加価値が却ってこれを野放しにしがちなものだ。

前夜いつもより遅い就寝についたK-幼な児-はやはり少しばかり昂ぶっていたのか、朝食のあと食べたものをすっかり吐いてしまっていた。そんなことがあったから、この長丁場の進行に無事付き合いきれるのかと心配されたのだが、成長というものは体力も気力も伴うもので、昂ぶりは昂ぶりのままにこのハレの長い時間を享受しきったようで、その躁状態は保育園を去ってからも終日続き、長く記憶に残るべき一日を彼女なりに満喫したのではなかったか。

それにしても6年という月日、毎日々々、子も母も父も、通ったも通ったり、まこと三様にご苦労さんであったことよ。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「霽の巻」−17

   仏喰たる魚解きけり    

  県ふるはな見次郎と仰がれて  重五

県-あがた-

次男曰く、初折の花の定座で、見所は二つある。一つは、「仏喰たる魚解きけり」を花の賞翫につないだ目付、いま一つは「はな見次郎」といあ渾名の趣向だ。

「ほとけにはさくらの花をたてまつれわが後の世を人弔はば」-山家集・春-という西行の有名な歌がある。俊成が「千載集」にも撰んでいるもので、前者の思付の拠所はこれだろう。「仏」と云い「解きけり」と云った芭蕉の句作りが、津波による一珍事にとどまらず、煩悩の解脱を含とした、花の句前の興だったとも改めて覚らされる。

後つまり「はな見次郎」の方は、当五歌仙の初巻-狂句こがらしの巻-初折の表三句目で、荷兮が「有明の主水に酒屋つくらせて」と既に作っていたと思い出してもらえばよい。片や月の座を取り込んで趣向とした渾名の思付で、こういうとき俳諧師は間違っても「月見次郎」などとは作らぬ。又、工夫に先例があれば「花見太郎-三郎、四郎-」とも作らぬ。

句はホドク其人の付で、芭蕉を賞めそやしている。「はな見」とした表記がみそだ。連句には差合を嫌って、句去-隔-という約束がある。たとえば同季は通例五句去、同字もこれに準ずる-三句以上隔-。当歌仙は「紅花買みちに」から数えて花の座は五句目、花見次郎を「はな見」と表記した所以だろう。

「県ふる-旧る-」は、その地方で古くから名を知られている意で、県居-田舎暮し-から派生した連語だろう。

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