仏喰たる魚解きけり

Fugakusuwako

写真は富嶽三十六景、藍摺10葉の内「信州諏訪湖

―表象の森― 富嶽三十六景

北斎富嶽三十六景が46葉もの景から成っていたとは、その一葉々々を順繰りに眺め渡してみるまで気がつかなかった。
勿論、当初は板元もその名の通り36葉の景で終結とする予定だったが、評判が良すぎた所為で10枚が追加されたという。あとから追加の10葉を「裏富士」と呼ぶそうな。
これらの全容を見るのに便利なsite-「葛飾北斎 富嶽三十六景」-があった。勿論商用のsiteなのだが、まことに懇切丁寧な作りで感心させられた。
北斎といえば西欧から入ってきた「ベロ藍」の導入が思い出されるが、「東都浅草本願寺」に始まり「信州諏訪湖」や「甲州石班沢」などを含むその「藍摺」10葉が別掲で纏められている頁もあってなかなか愉しめる。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「霽の巻」−16

  まがきまで津浪の水にくづれ行  

   仏喰たる魚解きけり     芭蕉

仏-ホトケ-喰-くう-たる魚-ウオ-解-ほど-きけり

次男曰く、津浪の拾いものに人喰い鮫が揚がった、と付入って興じている。作意は「仏喰たる」で、これは、喰われてホトケに成ることを転置した云回しの面白さだろう。打揚げられた大魚を取囲んで、人間を食べたに違いない、と気疎げにのぞきこんでいる人垣のさまがよく出ている。手足の一つも出てくるかもしれぬという好奇心と怖れはあるだろうが、腹を割いてみたら現にそれらしい物が出てきたと云っているのではない。

「くづれ行」に「解きけり」は、詞のひびきをうまく利用した観相付の展開である。「ほとけ」は「解-ほと-け」に通じる。

古注以下殆どの評家は、打揚げられた大魚を瑞祥とでも眺めたか、「仏」は仏像と読んでいる-樋口も穎原も同じ-。捌いてみたら尊像が出てきたという縁起話は、漁村の寺などにはよくあることだから、そうも読めるが面白くはない、と。


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