かげうすき行燈けしに起侘て

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―表象の森― カオスの縁と共進化

<A thinking reed> S.カウフマン「自己組織化と進化の論理」より

無償の秩序‥‥。

十分に複雑な化学物質の混合物は自発的に「結晶化」して、それら自身を合成する化学反応のネットワークを、集団的に触媒できる可能性がある。
これらの集団での自己触媒系は、自分たち自身を維持し複製する能力をもつ。これは、生物における物質代謝となんら変わりはない。

生命が出現する前の化学システムにおいて分子の多様性が増加し、その複雑さがある閾値を超えた際に、生命現象が創発したと考えることができる。
もしこれがほんとうなら、生命とはたがいに相互作用している分子系の集団的な性質の上に成り立つものとなる。生命は全体として創発し、つねに全体として存在してきたことになる。

卵から成体への成長、すなわち個体発生は、人間の場合一つの細胞、すなわち受精卵-接合子-から始まる。接合子はおよそ50回の細胞分裂を経て1000兆個の細胞を作り出し、新生児を形成する。
それと同時に、接合子では細胞の型は一つだったのに、成体ではおよそ260種の細胞の型-肝臓の腺細胞、神経細胞、赤血球、筋細胞など-へと分化していく。

成長をコントロールする遺伝的な指令は、各細胞内の核にあるDNA-2007年現在ヒトの遺伝子は2万数千程度と推定-に書かれているが、注目すべきは、すべての型の細胞で遺伝子の組はほとんど完全に同じであるにもかかわらず、それぞれの細胞が異なるのは、活性化されている遺伝子が異なり、さまざまな酵素やその他のタンパク質が作られるためである。

このゲノムのシステムは、化学物質からなる複雑なコンピュータと見做しうる。‥逐次処理型のコンピュータではなく、‥ある種の並列処理型の化学コンピュータである。

ゲノムのネットワークで見られる創発的な秩序、‥生物における秩序の多くは自然淘汰の結果などではなく、自己組織化された自然的秩序である。‥生物圏における秩序の根源は、いまや自然淘汰と自己組織化の両方を含むものでなければならない。

生命は多くの場合「カオスと秩序のあいだで平衡を保たれた状況に向かって進化」する。
生命は「カオスの縁」に存在する。さらに比喩を物理学から借りれば、生命は「相転移点」付近に存在する、ということになる。
「ゲノムのシステムは、カオスへ相転移する直前の秩序状態にある」とい考え方を支持するかなりのデータもある。

カオスの縁−秩序と意外性の妥協点−の近辺にあるネットワークが、複雑な諸活動を最も調和的に働かせることができるし、また進化する方向を最も兼ね備えているのである。そして、調節のきいた遺伝子のネットワークをカオスの縁付近に位置づけたのが自然淘汰である、という仮説はとても魅力的だ。
この進化空間で最良の探索を行うのは、秩序と無秩序の相転移点のような状態にある集団なのである。

カオスの縁」というイメージは、共進化にも現れる。
共進化の系では、それぞれの種が適応地形のピークを目指して登っていくが、その地形自体も、共進化の相棒が適応的に活動することにより、始終変形していくのである。こうした共進化の系も、秩序的な状態、カオス的な状態、そして転移状態をとる。そしてこれらの系は、転移状態すなわちカオスの縁に状態に向かって共進化していくようにみえるのだ。

おのおのの種は自己の利益のために活動しているにすぎないのに、系全体としては、まるで「見えざる手」によって操られているかのように振る舞う。そして、だいたい、各種が最善を尽くしたときに行きつくような安定な状態へと進化するのである。ところが、この最善の努力にもかかわらず、系全体の集団的な振る舞いによって、最終的にはおのおのが絶滅へと追いやられる。

技術の進化も、実は、生物が生まれる以前の化学進化や、適応的な共進化と同じような法則によって支配されている。

「急速な経済成長は、商品とサービスの多様性が閾値を超えたときに始まる」という理論は、化学的な多様性が閾値を超えたときに生命の起源がはじまるのと同じ理論にしたがっている。多様性が臨界値を上回ると、新しい種の分子が、あるいは新しいタイプの商品やサービスが、さらなる新種のためにニッチを提供する。そうして生まれた新種は、自らが「可能性の爆発」の中に置かれた存在であることに気づく。経済システムでも、共進化の系と同じように、多少とも近視眼的な行為者の利己的な活動が絡み合っている。また、生物進化や技術進化における適応的な動きが、種の分化や絶滅の雪崩的現象を引き起こすことがある。いずれの場合にも、まるで見えざる手にしたがっているかのように、システムは自らを安定なカオスの縁に向かわせていく。そこでは、すべての演技者が可能な限りうまく演じる。しかし、最終的には舞台から退場していくのである。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「霽の巻」−33

   声よき念仏藪をへだつる  

  かげうすき行燈けしに起侘て  野水

起侘て-おきわび-て

次男曰く、念仏を聞いている人の付である。「起侘て」は、藪を隔てて「声よき」と感じる人なら、油も尽きかけた風情の灯しをわざわざ消しに起きようとはせぬ、と読めばよい。「声よき」に「かげうすき」を掛合せ、共に夜長を含ませた一興としている。

諸注、「寂しきを移したる」-秘注-、「心細きさま」-升六-、「藪の奥に庵結びて一人住みせる発心の隠者」-樋口功-、「何となく気味悪く心細く思はれて、行灯のところまで起きて行けない」-穎原退蔵-などと読んでいる。

露伴も「藪のかなたにて哀れに声澄みて念仏するが聞ゆる夜深き折柄、影薄くして明滅する行燈の光の鬼気人を襲ふやうなるを、寧ろ滅さんとは思へども、衾をぬけ出て起き行かんも好もしからず、徒らに躊躇すると附たるなり」と、見当外れなことを云う。

放生会の唱名に気付かず、隔てて聞くという侘びた興の発見に思到らなければ、こういう解釈になる、と。


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