声よき念仏藪をへだつる

Zukin

―表象の森― 人形遣い吉田簑助の五十年

02年に歿した文楽の4代目竹本越路大夫は生前「修業は一生では足りなかった、二生欲しい」と語ったそうな。じんと胸に響く佳い言葉だ。
しかし、これも我執が嵩じ過ぎると果ては代襲制度へと行き着くようで自戒が必要だろう。

もうずいぶん前に出版されたものだが、文楽人形遣い人間国宝である三代目吉田簑助の自伝的芸談「頭巾をかぶって五十年」-91年、淡交社刊-を読むと、なお手厚いとは言えぬまでも伝統芸能として今日のような国の保護政策を受けるまでの、戦前・戦中から戦後の困難な時代に、人形浄瑠璃がどのように生き延びてきたかがさまざま偲ばれておもしろい。

歌舞伎にせよ浄瑠璃にせよ、大大矢竹次郎率いる松竹が大スポンサーとして君臨してきたからこそ、その困難な時代を生き延びてこられたのには違いないのだが、敗戦後の混乱の時代、労働三法が成立する民主化運動の風潮のなか、映画・演劇関係者においても労働組合が結成されるにおよんで、様相はずいぶんと変化していく。

人形浄瑠璃においても、1948(S23)年5月、日本映画演劇労働組合大阪支部文楽座分会が結成され、全員参加が建て前で当初は関係者の殆どが組合員となったが、これが松竹側からの懐柔や干渉もあって、ただちに分裂の憂き目をみることとなる。

2代目桐竹紋十郎率いる組合派は三和-ミツワ-会、豊竹山城少掾や3代目吉田文五郎を中心とした松竹派は因-チナミ-会とそれぞれ称したというが、この分裂劇、スポンサーであった大松竹に逆らった組合派の三和会は、その後の15年を自主公演活動で全国を旅して廻るという辛酸を舐める。三越が救いの手を差しのべて東京・大阪の三越劇場へと定期的な公演をもつようになるのもこの頃だ。

簑助は、松竹側-因会-に残った父紋太郎とは離れて、師事していた紋十郎に随き多難の道を選ばざるを得なかった。

戦後もかなり遠くなった高度成長期の63(S38)年、三和会と因会は恩讐を超えて大同合流し、財団法人文楽協会が誕生することとなるが、やむにやまれず方向を違えた15年間の不幸が、互の燃焼、切磋琢磨をもたらし、却って人形浄瑠璃伝統芸能としての芸の力を鍛え、貯め込んだともいえるかもしれない。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「霽の巻」−32

  烹る事をゆるしてはぜを放ける  

   声よき念仏藪をへだつる   荷兮

念仏−この場合-ネブツ-と読ませている。

次男曰く、句は雑体で放生会-仲秋とくに陰暦8月15日-とは云っていないが、それを含として「声よき念仏」と作っている。僧は自ずと複数と知られる。

三句前に「鐘の声」とあるのに気付かなかった筈はなく、同字差合を承知のうえで「声よき」と遣ったとすれば、それなりの作文が下七文字になければならぬ、と読みの興を誘うところが見どころだ。「藪をへだつる」はそこに生まれた気転、妙案だろう。さらに沙魚は泥砂のなかに潜って棲息する習性があるから、併せてそこにも目を向けた滑稽なのかもしれぬ。たぶんそうだろう。作者の老練ぶりを遺憾なく発揮した差合嫌いの工夫だ。気分などで付ているわけではない。

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