酒しゐならふこの比の月

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―表象の森― 陽春の倦怠

昨日はめずらしく昼前から外出。
同期の旧友Kと逢うため地下鉄で梅田へ、約束の前に駅前第3ビル地下の古書店に立ち寄ってネットで注文していた書を受領、1500円也。
途中昼食をはさんでほぼ2時間半対座、話はとくに的もなくとりとめもなく進み、ただ声と語り口にともなうなにがしかの肉感が心地よいといえばいえそうな、そんな時間か。

そのあと連れ立って、同期4名が出品しているという市岡OBたちの写真クラブ作品展に立ち寄るべく、南森町のギャラリー「草片-くさびら-」へと移動。
会場にはT君が居た。写真はなべて4ツ切りサイズか、額も同じ仕様で統一されており、18人が各々2点ずつ、計36枚が整然と配列されているのだが、その平等主義?と些か空間の窮屈なこともあってか、却って個々の作品の鑑賞という行為を阻害させているような気がする。眼の動線に遊びが欲しいのだが、なんとかならなかったものか。

そこへU-出品者-さんが来て少し立ち話をしたが、暇と金にあかせた彼女の行動力は、写真というお道楽を得て、一気呵成に突き進んでいるようで、来週は岩手にとか、来月は礼文島にとか、云っていたのには少々面喰らってしまった。

汗ばむほどの陽春の昼下がり、地下鉄に乗り込んだ身体になにやら物憂いようなけだるさを感じていた。


―今月の購入本―

ダグラス.R.ホフスタッター「ゲーデルエッシャー.バッハ あるいは不思議の環」白揚社
1985年初版の中古書。ウィキペディアに曰く「GEBの内容を一言で説明するのはむずかしい。中心となっているテーマは「自己言及」だが、これが数学におけるゲーデル不完全性定理、計算機科学におけるチューリングの定理、そして人工知能の研究と結びつけられ、渾然一体となっている。エッシャーのだまし絵やバッハのフーガやカノンは これらをつなぐメタファーとして機能している」と。先に図書館から借りて少し囓ってみたが、とても読み切れずむなしく返本。のんびり時間をかけてみるしかない。

陳舜臣曼荼羅の人−上」「 々 −下」TBSブリタニカ
1984年初版の中古書。若かりし私度僧空海長安滞在期を描いた小説。作者の陳舜臣は、先に「空海の風景」をものした司馬遼太郎と、大阪外国語学校-現在の大阪大学国語学部-の同期だったというのは偶然にしてはできすぎている。

黒田俊雄「王法と仏法−中世史の構図」法蔵館
初版は1983年だが、2001年増補新版の中古書。「黒田史学」と称される、天皇を中心に公家・武士・寺社など諸権門が相互補完をなして中世国家を形成していたとする「権門体制論」、あるいは、中世宗教の基軸を顕密仏教に求め、その構造と展開を論じる「顕密体制論」

篠田謙一「日本人になった祖先たち」NHKブックス
副題は「DNAから解明するその多元的構造」、2007年2月の新刊書。最近のDNAデータから、アフリカ出来の人類がどのような道をたどって東アジアに到達し、日本列島へ渡ったのか、また、先住の縄文人と大陸渡来の弥生人という日本人の二重構造論をも検証する。

松岡正剛「世界と日本のまちがい」春秋社
副題に「自由と国家と資本主義」、2007年12月の新刊書。公開講座の語りおろしによる著者独自の史観で読み解く近現代史

吉本隆明「情況への発言-2」洋泉社
私誌「試行」の巻頭「情況への発言」、第45号-1976年4月-から第61号-83年9月-まで。

広河隆一編「DAYS JAPAN -戦争と人間と写真-2008/04」ディズジャパン


―図書館からの借本―

佐藤次高編「世界各国史-8-西アジア史?アラブ」山川出版社
嘗てオスマン帝国下に統合されていたアラビア半島からマグレブまでの範囲を各王朝毎に詳細に辿る通史。

松岡正剛空海の夢」春秋社
71年の創刊から82年まで雑誌「遊」を編集した松岡正剛工作舎を離れ、初めて書き下ろしたもの、84年初版。

大石直正/高良倉吉/高橋公明「周縁から見た中世日本−日本の歴史14」講談社
奥州と琉球および列島周辺の海洋世界から浮かび上がる日本の中世像。

別冊日経サイエンス№151「人間性の進化−700万年の軌跡をたどる」河出書房新社
別冊日経サイエンス№154「脳から見た心の世界−Part2」河出書房新社
別冊日経サイエンス№156「宇宙創生紀−素粒子科学が描き出す原初宇宙の姿」河出書房新社

<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>


「雁がねの巻」−02

  雁がねもしづかに聞ばからびずや  

   酒しゐならふこの比の月     芭蕉

この比-ころ-

次男曰く、越人が陽性の大酒呑だった証拠はいくらもある。「性酒を好み、酔和する時は平家をうたふ」男は、貞享4年冬の伊良胡行でもさっそく酔態を師の前にさらけだしたらしい。「笈の小文」には入れていないが、「伊羅古に行道、越人酔て馬に乗る、ゆき-雪-や砂むま-馬-より落-おち-よ酒の酔」という句が「あま津なはて、さむき日や馬上にすくむ影法師」、「鷹一つ見付てうれしいらこ粼」と共に「合歓のいびき」-蝶羅編、明和6年跋-なる集に収められ、芭蕉真蹟詠草も遺っている。

「酒しひならふ」と芭蕉が付けたところで、先の「しづかに聞ば」の滑稽ぶりがようやく見えてくる。乏しい暮しとはいえ、夜毎芭蕉が越人に酒を勧めなかった筈はない。又、居候の分際で、越人がこれを辞退しなかった筈もないのだ。当夜の状況に即して云えば、「この比の月」とは後の月-9月十三夜-の頃で、今宵ぐらいはせめて存分に飲みたまえ、というのが亭主芭蕉の唆誘-さゆう-である。対して越人の答は、水入らずで手ほどきを受ける記念すべき今宵だけは、誓って盃を手にしません、だろう。これは、飲まぬと云うなら代ってこちらが飲もうか、と煽ってでもその気にさせてみたくなる遣取で、充分に俳諧のたねになるものだが、客-越人-は「しづかに-素面で-聞ば」と、こだわって辛抱している。そう読んでよい。

時に越人33歳、芭蕉は45歳。この夜の興は挨拶の出ばなからして、李白杜甫の拘泥癖を飯顆-ハンカ、めしつぶ-の粘着に喩えてからかった有名な話を思い出させる。天宝3-744-、4年、二人共河南・山東あたりで放浪の生活を送っていた頃である。「酔別、復幾日ゾ、登臨 池台ニ偏-あまね-シ、何レノ時カ 石門ノ路、重テ金樽ヲ聞クコト有ラン、秋波 泗水-シスイ-ニ落チ、海色 徂徠ニ明ルシ、飛蓬 各自ラ遠ク、且尽ス手中ノ杯」-李白、魯郡の東、石門ニテ杜二甫ヲ送ル-。天宝4年秋のことで、李白45歳、杜甫34歳だった。深交僅かに一年、その後二人はついにめぐり逢うことはなかったらしい。

越人と芭蕉の対吟は、後にも先にも「雁がねの巻」だけだった。状況と云い年齢と云い、偶然というには出来過ぎた符号である。。李・杜交遊のときのそれぞれの年齢を、芭蕉たちは知っていたのではないか。少なくとも大凡の一致には気付いた筈で、とすればこの付合は、芭蕉李白を、越人が杜甫を演じるという、役どころ取替にも仕掛の妙を生むだろう。

むろん芭蕉杜甫好は周知の話である。今宵のきみが強いて李白に倣わぬというなら、ぼくが代りに飲んで、大切な杜甫をきみに預けようか、と読めば俳諧になる。芭蕉杜甫も下戸ではなかったが、無くて過せぬほどの酒好でもなかった、というところが満月にはなれぬもう一つの名月-9月十三夜-の興のミソである、と。


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