藤ばかま誰窮屈にめでつらん

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―表象の森― 悼、釜ヶ崎の詩人こと東淵修

むかし さんじゅうねんくらいまえは たばこ ろくじゅっぽん さけは いっしょうざけであった
じゃんじゃんまちを いっしょうざけを はらにぶちこんで じぐざぐにに しょんべんを してまわった ことがある 
だから そのじぶんが わいの いちばんおもろかったことを おもいだす
きぶんがわるなったら そこいらに はいて まわった
いろいろ かんがえつめると そのじぶんが いちばんの わいの ごくどうぜんせいじだい だった
あるひ あんまり からだのちょうしが わるいので いしゃへ いった
おいしゃさんの いうのには あんた とうにょうびょうやで へたしたら ぽっくりやで といわれた
ほんで しらべたら しんぞうも わるいで けんさにゅういんせなあかん
ようようしらべたら しんぞうが ひだい している
それで こっちも びっくりしてしもうて けんさにゅういん することにした
けっか けんさで ふうせんちりょう することになり ぱあんと はれつ さした
それで いったんは なおった
とうにょうびょうのほうは くすりじゃなしに いつのまにか ちゅうしゃを うつことに かわっていった
いつのまにか いっしょうざけも たばころくじゅっぽんも ふっかつしていた
えんえんと ごくどうは つづいたのである
しあわせやったなあ
そんなときは さくひんも もりもり かけた
それが えいえんに つづくかとおもたが
あるひとつぜん しんぞうが くるしなって びょういんへ はこびこまれた
ついでに じんぞうも わるなって
いらい びょういんと このよに はいかい することになった
ごくどうの すえや しゃあない

  ―――東淵修-とうにょうびょうと、しんぞうびょうと、じんぞうびょうと-


釜ヶ崎の詩人こと東淵修氏の死が報じられたのは2月25日だったか、享年77歳という。

彼が主宰した「銀河詩手帖」は1968(S43)年11月創刊というから、以来40年の長きを、時に月刊として、時に季刊または隔月刊として、ずっと保ってきたことになる。まさに「えんえんと、ごくどうは つづいたのである」

嘗ての私の書棚にも、その詩誌は2冊か3冊、諸々の本に混じっていたと記憶する。
70年代のいつ頃のことであったか、いかつい体躯に人なつこいような柔和な笑顔を浮かべたこのおっさん詩人と、一度きり対座したことがある。なぜ、どんななりゆきで、そうなったものやら、だれかと一緒だったのか、てんで思い出せないのだが、とにかくその時の彼の印象だけはあざやかに脳裏によみがえる。その頃の彼はきっと「たばこ ろくじゅっぽん さけは いっしょうざけ」の日々であったのだろう。

今月の13日、その「おやっさん」を偲ぶ会が催され、全国から詩人たち50人ばかりが駆けつけた、とも報じられていたのを眼にした。
遺された「銀河詩手帖」同人らが、おやっさんの遺志を継ぎ、詩誌発行の火を灯しつづけていく、ともあった。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」−02

   酒しゐならふこの比の月   

  藤ばかま誰窮屈にめでつらん  芭蕉

次男曰く、秋三句目。
フジバカマは漢名を蘭または蘭草と云い、藤袴はその花の色と管状の弁をの形とからつけられた和名である。

万葉集」巻八の秋雑歌に「萩の花尾花葛花瞿麦-なでしこ-の花女郎花また藤袴朝貌の花」-山上憶良-とあり、呼称も表記も早くから定着したものらしい-蘭・らにという名も並んで用いられた-。連・俳では初乃至仲秋の季に扱う。

飲みたい酒を飲まぬというこだわりも窮屈だが、それを承知のうえで無理強いする行為はもっと窮屈な話だ。と気付いた可笑しさがこういう時宜の草花を思付かせる。袴の異名は窮屈袋である。句は、名づけの所以を咎めているとも読めなくはないが、「藤袴誰窮屈に」とあけすけに語縁をさとらせては、問答も興醒めだろう-「蘭草を誰窮屈にめでつらん」と作ればよい-。藤袴の名にふさわしい愛で様をさぐれ、と読んでおく。

フジバカマはキク科の芳草で、その縁の色-紫-を主知らぬ香や形見の香にことよせ、もともと詠み口窮屈な花である。

「やどりせし人の形見か藤袴忘られがたき香に匂ひつつ」-古今集・秋、貫之-
「主知らぬ香こそ匂へれ秋の野にたが脱ぎ掛けし藤袴ぞも」-同、素性-
「おなじ野の露にやつるる藤袴あはれは掛けよ託言ばかりも」-源氏物語藤袴-

三首目は、父源氏の使として玉鬘を尋ねた宰相の中将-夕霧-が、序でに、同じ祖母の喪に服している縁を口実にして藤袴の花を贈り、従姉に言寄る歌である。これには源氏も亦、夕顔の忘れ形見を養女として引取っておきながら且恋もしている、という窮屈な筋が下地となる。藤袴が玉鬘の別名というわけではないが、芭蕉の句仕立から自ずと思出さぬわけにはゆかぬ話だろう。

発句の、同意を求めたげな、止むに止まれぬ心根を汲んで、持成しとなる物語の上をかすめる含もありそうな返戻を以てしたところ、この歌仙の形式が両吟であるだけに、さっそく展開の利く第三である。

露伴は「春秋左氏伝」に鄭の文公の賤妾燕姞-エンキツ-が蘭に夢に見て公子-後の穆公-を身籠ったとしるす話を引く。穆公-名は蘭-、父母の恩愛を銘ずること深く、縁の草を大切にし、病みて卆するに臨んでは悉くこれを刈取らせた、と伝える。゛其の窮屈に愛でたることも太甚-はなは-だし。周茂叔の愛蓮、林和靖の愛梅、其愛は深しと雖も、窮屈の愛しざまにはあらず」と露伴は云うが、芭蕉の句は「蘭」の句ではない。尤も、この話は俊成はじめ「新古今」時代の和歌の判にも見え、芭蕉も知っていたかもしれぬ。それなら、王朝人の藤袴の愛で様を、古代中国の故事にまで遡らせて娯んでいる、という句になる、と。


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